新映画原理主義・第8回「GPOとイーリングスタジオの俊英~ハリー・ワット」

 

第一章 英国ドキュメンタリー運動とアヴァンギャルド映画運動

 

 1930年代から戦争を挟んだ1940年代には、英国ドキュメンタリー運動がジワジワと映画界に浸透していた。この運動の嚆矢は28年に設立された帝国通商(EMB)に、ジョン・グリアスンが映画部を開設したことから始まったと言われている。グリアスンがEMBに映画部を作ったのは偶然ではなく、20年代にヨーロッパに起こったアヴァンギャルド映画(前衛映画もしくはシュールレアリズム映画)運動に起因している。『リズム21』(23年・ハンス・リヒター監督)、『理性への回帰』(23年・マン・レイ監督)、『幕間』(24年・ルネ・クレール監督)、『アネミック・シネマ』(26年・マルセル・デュシャン監督)、『伯林 大都会交響曲』(27年・ワルター・ルットマン監督)、『アンダルシアの犬』(28年・ルイス・ブニュエルサルバドール・ダリ監督)、『カメラを持った男』(29年・ジガ・ベルトフ監督)など大量のアヴァンギャルド映画が製作された。アヴァンギャルド映画運動は、アヴァンギャルド芸術運動とも同調しヨーロッパを席捲していった。

 グリアスンは映画の可能性に深く関心を持ち、アヴァンギャルド運動の熱量をまだ未開発であったドキュメンタリー映画に注ごうと試みた。アヴァンギャルド映画の主観性とドキュメンタリー映画の客観性は、相反するテーマと思われたが、ドキュメンタリー映画の深度が増すに従って、次第にお互いの長所が組み込まれて再構成されて行くことになる。グリアスンは『流網船』(29年)、『産業英国』(31年)を自ら監督して、フッテージを創造的に再編集するという方法論を実践した。33年、運動の拠点は中央郵便局(GPO)に移り、『セイロンの歌』(34年・バジル・ライト監督)、『夜行郵便』(36年・バジル・ライト&ハリー・ワット監督)、『火の手はあがった』(43年・ハンフリー・ジェニングス監督)、『英国に聞け』(42年・ハンフリー・ジェニングス&スチュアート・マカリスター監督)、『ティモシ―のための日記』(44-45年・ハンフリー・ジェニングス監督)などの傑作を送り出した。

 余談になるが、『ティモシ―~』は、30年以上前にシネマトグラフの上映会で『田舎司祭の日記』(50年・ロベール・ブレッソン監督)と日記映画二本立で上映し大盛況であった。ジェニングスの映画を初めて観賞して、彼を知らなかった己の無知ぶりに反省を促した。因みに現在普通に使われている“ドキュメンタリー”という言葉は、グリアスンが英国領サモア諸島の原住民の暮らしを撮影したロバート・フラハティ監督の『モアナ』(26年)に対して使った造語と言われている。

 

第二章 ハリー・ワットのドキュメンタリー修行

 

 ハリー・ワットは1906年10月18日、スコットランドエジンバラ生まれ。父親はスコットランド自由党議員のハリー・ワット。エジンバラ大学で学び、商船に入隊し、多くの産業関係の仕事に就く。そして31年にEMB映画部に入社する。グリアスンの招きで32年に渡英したロバート・フラハティが、アイルランドアラン諸島の自然と人間を1年半かけて撮影した傑作『アラン』(34年)では、ラッシュを観るため島に作られた現像所で助手を務めた。ドキュメンタリー映画の巨匠の元での助手仕事は、ワットにとってその後の自身の仕事への大いなる刺激となった。仕事の拠点がGPOに移った34年に短篇『6.30コレクション』で監督デビューを果たす。バジル・ライトと共同監督した36年の『夜行郵便』はグリアスンの方法論を忠実に実践した傑作で、本作に依ってワットは有望なドキュメンタリー監督として注目されることとなった。同年、アメリカのニュース映画シリーズ『マーチ・オブ・タイム』のロンドン部門の監督に抜擢され、多くのニュース映画を撮る。その後は劇映画的要素を入れた『ビル・ブルーイットの救出』(37年)や『ロンドンは耐えられる!』(40年)、『今夜のターゲット』(41年)など多くの優れた短篇ドキュメンタリーを監督した。特にナチスドイツの爆撃任務に参加したウエリントン爆撃機の乗務員を主人公にした『今夜のターゲット』は、巧みに劇映画的演出も盛り込んで緊張感を持続させた傑作で、42年度のアカデミー賞で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した。

 

第三章 マイケル・バルコンとの出逢い

 

 マイケル・バルコン率いるイーリング・スタジオに招かれて監督した『砂漠の9人』(43年)は、初の劇映画にして初の長編であった。ジャック・ランバート、ゴードン・ジャクソンらの出演。第二次大戦アフリカ戦線のサハラ砂漠。英国陸軍のパトロール部隊はイタリア軍の砲撃で車が大破し小屋に立て籠もる。生き残った兵は9人で弾薬も水も乏しい。設定が同年のアメリカ映画『サハラ戦車隊』(ゾルタン・コルダ監督)に似ているのは偶然なのだろうか。マイケル・バルコンは20年代初頭よりプロデューサーとしてのキャリアをスタートし、23年にはヴィクター・サビルと共同でゲインズボロ―・ピクチャーズを設立するが、ゴーモン映画社に吸収合併される。この時代の34年にバルコンはフラハティの『アラン』をプロデュースしており、ドキュメンタリー映画と劇映画の融合の可能性を模索していたと思われる。英国MGM映画の責任者を経て、38年にイーリング・スタジオの所長に就任する。02年設立の同社は慢性的不振に陥っており、剛腕で鳴らしたバルコンへの期待は大きかった。バルコンは、予てから考えていた低予算で最大の効率を上げられるドキュメンタリー・タッチの劇映画を、イーリングの売りにしようと動き出した。優れたドクメンタリー監督として売り出し中のハリー・ワットをスカウトしたのも、バルコンの大いなる読みであった。

 トミー・トリンダ―主演のコメディ『フィドル奏者三人組』(44年)は不発だったが、次のオーストラリアロケを敢行した『オヴァランダース』(46年)は大成功を収めた。1942年のオーストラリアが舞台。シンガポールより勢いに乗り南下してくる日本軍より、主要食糧となる牛を守るため安全な南部へ千頭の牛を移動させるという、2500キロのオーストラリア大陸横断の悪戦苦闘を描いた本作は大ヒットした。イーリングがオーストラリアで製作を開始する切っ掛けとなり、主人公を演じたチップス・ラファティは人気スターとなった。

 映画の大ヒットに気を良くしたバルコンは、次の『ユーレカの砦』(48年)もオーストラリアで撮影しワットとチップス・ラファティに再びコンビを組ませた。1853年のオーストラリアのある州で金が採掘されたことから、全世界から一攫千金を夢見る採金師たちが集まって来た。だが争いも多く現地警察の横暴な対応に採金師たちの怒りが爆発。ユーレカの丘に砦を築いて立て籠もる。国家は軍隊を派遣し砦を攻撃するが・・・。『オヴァランダース』のような爽快さに欠けたためか映画は失敗し、バルコンはワットにオーストラリアロケをやめさせて、映画の題材を求めて東アフリカ行きを命じる。英国領東アフリカを舞台にした『禿鷹は飛ばず』(51年)はテクニカラーによる色彩映画。野生動物の濫獲に悩む主人公アンソニー・スティールが密猟者と対決する。アフリカの野生動物の生態が美しい色彩で紹介される珍しさも手伝って映画は大ヒット。続編の『秘境ザンジバー』(54年)もアフリカを舞台にした色彩映画だったが、二番煎じ感は拭えずコケてしまう。55年に業績不振からイーリング・スタジオがBBCに身売りしたためマイケル・バルコンはイーリング・スタジオを退職した。ワットは大きな後ろ盾を失ってしまった。

 

第四章 その後のハリー・ワット

 

 55年から話のあったスペインのグラナダテレビでプロデューサーとして働くが、やはり映画現場への夢断ち難く1年も絶たないうちに退職してしまう。古巣イーリング・スタジオに再び売り込み(BBCに身売りした後も名前は残っていた)、長年眠っていたシナリオを掘り起こした。それがオーストリアを舞台にした『全市爆砕!』(59年)であった。シドニー刑務所をアルド・レイたち囚人数人が脱獄し、ピンチカット島にある古い要塞に住民ヘザー・シアーズたちを人質にして立て籠もる。島に残る砲台から弾薬船を砲撃してシドニー市を壊滅させようと目論むが・・・。久々のオーストラリアロケによる骨太のアクションものだったが、興行的には失敗しワットの映画監督としてのキャリアにも楔が打ち込まれた格好となった。

 その後はリチャード・コンテ、ジャック・ホーキンスら出演のTVシリーズを手掛けた。遺作はデンマークで撮ったファミリーもの『白い種牝馬』(61年)であった。74年には回想録「カメラを見るな」も上梓した。

 ジョン・グリアスン、マイケル・バルコンといった英国映画界のビッグネームの元で、しっかりした作品作りをしてきたハリー・ワットの功績は、もっと高く評価されて然るべきであろう。

 

(フィルモグラフィ)

6.30コレクション(デビュー作)(34年)、夜行郵便(バジル・ライト共同)(36年)、ビル・ブルーイットの救出、ビッグ・マネー(以上37年)、ファースト・デイ(ハンフリー・ジェニングス、パット・ジャクソン共同)、ロンドンは耐えられる!、炎の下のクリスマス、992飛行隊、英国湾、フロント・ライン(以上40年)、今夜のターゲット(41年)、21マイル(42年)(*以上全て短篇)、砂漠の9人(43年)、フィドル奏者三人組(44年)、オヴァランダース、ユーレカの砦(以上48年)、禿鷹は飛ばず(51年)、秘境ザンジバー、ピープル・ライク・マリア(短篇)(以上54年)、全市爆砕!(59年)、不思議な犬バラ(短篇)、白い種牝馬(*遺作)(以上61年)