新映画原理主義・第6回「サミュエル・ブロンストンとブリジッド・バズレン」

 

第1章 苦闘するサミュエル・ブロンストン

 

 サミュエル・ブロンストンは、1908年3月26日ロシア帝国(現在のモルドバ)のベッサラビアキシニョフ生まれ。ウラジーミル・レーニンと対立し国外に亡命して、40年パリで暗殺された社会主義革命家レオン(レフ)・トロッキーの甥。フランスのソルボンヌ大学で学び、卒業後はパリにあるMGMのフランス支部の営業部門に勤務した。本格的に映画製作に関わるべく37年にハリウッドへ渡り、苦闘の末の43年自らの製作会社“サミュエル・ブロンストン・プロダクション”を設立した。最初の製作作品は、同年のアルフレッド・サンテス監督、マイケル・オシュア、スーザン・ヘイワード主演の冒険活劇『ジャック・ロンドン』で、UA(ユナイテッド・アーテイスツ)の配給でまずまずの興行成績を収めた。以降、プロダクションはUAとコラボレーションしていくことになる。続いてシドニーサルコウ監督、リンダ・ダーネルエドガー・ブキャナン主演のフイルムノワール『黒い霧の果て』(43年)を製作し一応の成果を挙げた。勢いに乗ったブロンストンは、ヨーロッパ戦線での一小隊の実話を映画化したルイス・マイルストン監督、ダナ・アンドリュースリチャード・コンテ主演の『激戦地』(45年)の製作に着手するが、資金元であるユナイトが同時期に製作していたジャーナリスト、アーニー・パイルの従軍日記を映画化したウィリアム・A・ウェルマン監督、バージェス・メレディスロバート・ミッチャム主演の大作『G・Iジョー』(45年)との競合を嫌い資金提供を中止した。だがブロンストンは契約をたてに訴訟を起こし、おおむねで勝利して映画を何とか無事に完成させた。だが資金元に訴訟を起こしたことから、ユナイトとの関係もこじれてしまい自身のプロダクションによる映画製作も頓挫してしまう。

 

第2章 アメリカのブリジッド・バルドー

 

 ブリジット・バズレンは1944年6月9日ウィスコン州フォン・デュ・ラで誕生。父は有名小売りチェーンの幹部のアーサー・バズレン、母はシカゴ新聞のコラムニストのマギー・デイリー。7歳の時、自宅前でスクールバスを待っている所をNBCの幹部に見初められて、小さな役でテレビデヴューする。WGN―TVの「青い妖精」(58~59年)では、14歳にして初主演を果たす。この番組はカラーで撮影されたWGN―TVチャンネル9初期の子供向け番組である。青いマントを着てダイヤモンドのティアラを頭につけ、銀の杖を握りしめたバズレンが、ワイヤーで吊り下げられて小さなテレビステージを飛び回り、口パクで「私は青い妖精です。あなたの願いを叶えます。あなたの夢をすべて叶えます。」と視聴者に語り掛けた。番組は好評で新しいテレビ番組にも次々と出演し、その美少女ぶりから「次のエリザベス・テイラー」ともてはやされた。それに目をつけたMGMがスカウトし61年、17歳の時にMGMと専属契約を結んだ。MGMとの契約期間中、バズレンはBBの頭文字から宣伝キャンペーンで「アメリカのブリジッド・バルドー」と宣伝された。映画初出演は、まだブレーク前の若きスティーヴ・マックィーンと共演したリチャード・ソープ監督の『ガールハント』(61年)であった。これはロレンツツォ・センプル・ジュニアのヒット舞台劇「ゴールデン・フリーシング」の映画化で、バズレンは雷提督ディーン・ジャガーの娘ジュリー役。髪をアップにして、その美貌があからさまになった彼女は、バルドーというよりエリザベス・テイラー似で、このあたりも宣伝部が売り出し方をミステイクしてしまったのではないだろうか。だが彼女の自然な演技とスター性は十分うかがい知ることが出来る。

 

第3章 70mm大作の連発

 

 ユナイトとの関係悪化もありハリウッドで従来通りの製作が難しくなったブロンストンは、ユナイトとの訴訟裁判で凍結された資金が多数あることを知り、これを利用しない手はないと考え実行に移した。プロデューサーとしての手腕を大いに発揮したブロンストンは、巨額の資金及びスポンサーを獲得し、人件費の安価なスペインに製作の拠点を移すことにした。まず手始めに手掛けたのは、ジョン・ファロウ監督、ロバート・スタック主演の『大海戦史』(59年)であった。これはアメリカ海軍の創設者と言われるジョン・ポール・ジョーンズの生涯を描いた海洋ドラマで、海戦シーンの迫力は一部で話題になった。キャサリン大帝で出演のべティ・デイビスも作品に花を添えた。

 ブロンストンは夢であった壮大な規模の大作を実現するためスペインのマドリード郊外に巨大なスタジオを建設した。そうした下準備により製作された最初の70mm、165分の大作が、キリストの生涯を描いたニコラス・レイ監督、ジェフリー・ハンター主演の『キング・オブ・キングス』(61年)であった。本作はハリウッドにおいてキリストの顔を正面から取り上げた最初の作品でもあった。キリスト役はキース・ミッチェル、クリストファー・プラマーピーター・カッシング、マックス・フォン・シド―(*後年『偉大な生涯の物語』(65年・ジョージ・ステイ―ヴンス、デヴィッド・リーンジーン・ネグレスコ監督)でキリストを演じた)らが候補に挙がったが、瞳の説得力が買われてジェフリー・ハンターが抜擢された。ハリウッドの異端児であったニコラス・レイはキリスト物語を宗教面ではなく人間ドラマとして掘り下げて、非常に陰影の深い作品に仕上げた。MGMはサロメ役に新人ブリジッド・バズレンを猛プッシュして見事に役を獲得した。当時17歳のバズレンは妖艶なサロメを演じ切れるか不安視されたが、見事に不安を一掃しニュータイプサロメ像を印づけた。祝宴においてヘロデ王の眼前で肉体の歓喜と欲情を表現するかのように踊る姿は本作のハイライトと言ってもいい素晴らしい出来栄えであった。ある意味、3本の映画出演しかないバズレンにとって、本作がキャリアのピークと言っても過言ではなかった。映画は大ヒットし、ブロンストンは次への大作へ取り掛かった。

 アンソニー・マン監督、チャールトン・ヘストンソフィア・ローレン主演の『エル・シド』(61年)は、今までで最大の製作費を投入した70mm、184分の超大作。11世紀後半のカスティーリャ国の英雄と謳われた“エル・シド”ことロドリーゴ・ディアス・デ・ビバールの生涯を描く。ベラ・ユサフ(ハーバート・ロム)率いるムーア人の侵略に弱腰の国王に代わり孤軍奮闘するエル・シド。最後の決戦たる海岸におけるバレンシアの戦いは、CGのない時代だけに膨大な数のエキストラが投入され今では実現不可能な大スペクタクルシーンとなっている。当時はフランコ政権だったが、映画好きのフランコをうまく懐柔しスペイン軍をエキストラとして大量投入出来たのも、ブロンストンの面目躍如といったところだろう。映画は大ヒットし、アカデミー賞は各賞ノミネートだけに終わったが、ブロンストンはゴールデングローブの優秀賞を受賞した。

 ニコラス・レイ監督、チャールトン・ヘストンエヴァ・ガードナー、デヴィッド・二―ヴン主演の『北京の55日』(63年)も70mm、160分の大作。1900年の清朝時代の中国北京に反乱軍たる義和団が押し寄せる。11か国が居住する地区が包囲されて籠城を強いられて55日間戦った実話の映画化。日本軍の菊五郎中佐には若き伊丹十三(*伊丹一三名義)が参加しているが出番はわずかであった。これもフランコ政権の協力により、スペイン軍がエキストラとしてスペクタクルシーンを盛り上げた。戦闘シーンを演出する第二班監督として『ベン・ハー』(59年・ウィリアム・ワイラー監督)や『史上最大の作戦』(62年・アンドリュー・マートンケン・アナキン、ベルンハルト・ヴィッキ監督)の名スペクタクルシーンの演出で知られる、アンドリュー・マートンが起用されている。本映画は中国が舞台ということもあり、興行的には思ったほどヒットせず、ブロンストンの製作姿勢にも少しずつ暗い影を落としつつあった。

 

第4章 その後のブリジッド・バズレン

 

 『キング・オブ・キングス』のサロメ役は好評だったものの、大作出演の後だけに、なまじの作品に出演することは避けられた。次に出演したのは、シネラマ、165分の超大作の『西部開拓史』(62年)であった。ヘンリー・ハサウェイジョン・フォードジョージ・マーシャルの3人監督で、ジョン・ウェインジェームズ・スチュワートヘンリー・フォンダリチャード・ウィドマークデビー・レイノルズ、キャロル・ベイカーなどオールスター。バズレンはヘンリー・ハサウェイ監督による第1話に登場。毛皮猟師のジェームズ・スチュワートを騙す河賊ウオルター・ブレナンの娘を演じた。大スター、ジミー相手にも物おじしない演技を見せたバズレンは、オールスターキャストの中で爪痕を残すことが出来たと思うが、MGMとの契約切れも重なりこれが最後の映画出演となってしまった。

 その後はテレビを中心に出演を続けたが、70年代には早くも引退してしまった。ガンに侵されて、89年5月25日還らぬ人となった。まだ45歳の若さだった。ブロンストンの大作主義がまだ続いていれば彼女の再起用の可能性もあっただけに惜しまれる女優であった。

 

第5章 大作主義の終焉

 

 アンソニー・マン監督、ソフィア・ローレン、ステイーヴン・ボイド、アレック・ギネス主演の『ローマ帝国の滅亡』(64年)は70mm、194分の大作。後年のアカデミー賞作品『グラディエーター』(00年・リドリー・スコット監督)と同じ背景を扱っている。今までの大作は男性が主役であったが、今回はソフィア・ローレン演じるアウレリウス帝の娘ルシアが主役で、売りのスペクタクルシーンは抑え気味で展開のテンポも悪い。そのせいもあってか興行的は大コケしてしまう。さらに映画スタジオ建設費の負担も重なり、ブロンストンは財政難に陥り、64年には全ての事業活動を停止せざるえなくなる。債権者ピエール・S・デュポンとの間に訴訟合戦が繰り広げられ、64年6月には破産宣告を受けてしまう。さらに、ブロンストンがジュネーヴに開設していた個人口座に対して、アメリカ連邦警察が偽証罪で訴追し、裁判で有罪判決を受ける。ブロンストンはこれを不服として最高裁判所に持ち込み長い裁判の結果、73年に有罪判決を覆した。だが破産と刑事訴追により、彼の映画キャリアは壊滅的な打撃を受けてしまった。

 破産宣告の直前に、ヘンリー・ハサウェイ監督、ジョン・ウェインリタ・ヘイワース主演の70mm、135分の最後の大作『サーカスの世界』(64年)を完成させていた。西部劇スタイルのサーカスの人間模様を描き、サーカステントの火災シーンがスペクタクルな見せ場となっていたが、従来の大作よりもスケールダウンの感は逃れなかった。デュークと初共演のリタ・ヘイワースアルツハイマーの初期兆候があり、遅刻や台詞覚えの悪さ、酒に酔っての暴言などを露呈し、デュークを痛く失望させた。興行的にも芳しくなくブロンストンの苦境に追い打ちをかけることになった。

 ブロンストンはその後も細々ながら製作を続けるが、アラン・コルノー監督、ジェラルド・ドパルデュー、カトリーヌ・ドヌーヴ主演のフランス映画『フォート・サガン』(84年)が最後の華道となった。映画斜陽期に差し掛かる時期に、大作主義を頑なに貫いた姿勢は潔く、映画界における一代の漢と言っていい存在であった。

 

(フィルモグラフィ*特筆以外は全て製作)

ジャック・ロンドン(アルフレッド・サンテス監督*デビュー作)、黒い霧の果て(シドニーサルコウ監督)(以上43年)、激戦地(45年・ルイス・マイルストン監督)、大海戦史(59年・ジョン・ファロウ監督)、キング・オブ・キングスニコラス・レイ監督)、エル・シドアンソニー・マン監督)(以上61年)、堕落者の谷(アンドリュー・マートン監督*短篇)、北京の55日(以上63年)、ローマ帝国の滅亡アンソニー・マン監督)、サーカスの世界(ヘンリー・ハサウェイ監督)(以上64年)、野蛮なパンパス(65年・ヒューゴ・フレゴネーズ監督)、コッペリウス博士(66年・テッド・ニュージェント監督)、ブリカム(77年・トム・マコ―ワン監督)、ドクターCのミステリー・ハウス(79年・テッド・ニーランド監督)、フォート・サガン(84年・アラン・コルノー監督*遺作)