新映画原理主義・第十回「時代を通じての妖術~ ベンヤミン・クリステンセン」
第一章 役者としての出発
ベンヤミン・クリステンセンは、1879年9月28日、デンマークのヴィボルグで12人兄弟の末っ子として生まれた。彼は当初医学を学んでいたが、演技に興味を持ち1901年にコペンハーゲンのデット・コンゲリーゲ劇場(デンマーク王立劇場)で勉強を始めた。クリステンセンのプロ俳優としてのキャリアは、07年に港湾都市オークスにあるオーフス劇場で始まったと言われているが、一時ワインのセールスマンをして生計を立てていたという話もあり、それまでの経歴には不明な点も多い。オーフス劇場ではオペラ歌手としてデビューも果たしたが、極度のステージ恐怖症で観客の前で歌うことが出来なくなったという。しかしながら同劇場の専属舞台監督となり、オペラのプロデュースもしている。
11年にはダンクス・ビオグラフ社の『運命の帯』(スペン・リンドム監督)に俳優として初出演して、始めて映画界との関りを持つことになった。続いて『舞台の子供たち』(13年・ビョルン・ビョルンソン監督)に出演し、『小さなクラウスと大きなクラウス』(13年・エリト・レウマート監督)では、主役である大きなクラウス役で主演を果たす。第七芸術たる映画産業に俄然興味を抱いたクリステンセンは、ヘルボルグに本拠を置き初出演した『運命の帯』の制作会社であるダンスク・ビオグラフ社の経営権を引き継いだこともあり、14年、『密書』で監督デビューを果たすことになる。
第二章 ドライエルとクリステンセン
デンマークの世界的巨匠と言えば誰もが、『裁かるゝジャンヌ』(28年)『吸血鬼』(31年)『怒りの日』(43年)『奇跡』(55年)『ゲアトルード』(64年)など映画史に残る作品で知られるカール・テオドール・ドライエルを思い浮かべるであろう。ドライエルの知名度が先行し過ぎているために彼の方がクリステンセンより先輩と思われがちなのだが、実際は1889年生まれのドライエルは1879年生まれのクリステンセンより10歳も年下なのである。キャリア的にも19年に『裁判長』で監督デビューしたドライエルに比べ、クリステンセンは14年に『密書』で監督デビューを果たしており、映画キャリアでも先輩なのである。監督になる前はジャーナリストをしていたドライエルが、国内でそれなりに話題となったクリステンセンの『密書』と『復讐の夜』を観ていないとは考えにくく、当時からそれなりの関係性を築いていたと思われる。
その証拠にドライエルとクリステンセンはドイツに招かれ監督をすることになった際。ドライエルは自作『ミカエル』(24年)において主役の画家クロード・ゾレ役にクリステンセンを起用しているのである。『ミカエル』はエリック・ポーマー製作、テア・フォン・ハルボウ脚本という極めてドイツ色の強い内容となっている。主役の画家クロード・ゾレはモデルの美青年ミカエル(ウォルター・スレザック)にホモセクショナルな感情を抱いているが当時の規制により、その辺は曖昧な描写となっている。ミカエルはゾレの感情にはどこ吹く風で、美しい公爵夫人(ノラ・グレゴール)と逢瀬を楽しんでいるのだが・・・。クリステンセンは苦悩の画家役を好演し、ドライエル作品の一翼を担った。因みに美青年ミカエルを演じるのは当時22歳のウォルター・スレザック(映画出演2作目)で、後年ハリウッド映画に出演し『救命艇』(44年・アルフレッド・ヒッチコック監督)、『船乗りシンバッドの冒険』(46年・リチャード・ウォーレス監督)などにおけるでっぷりと太った悪役の面影はない。歳月とは恐ろしいものだ。ドライエルはかつてクリステンセンについて「自分が何を望んでいるかを正確に理解し、妥協のない頑固さで目標を追求した音である。」と評している。
第三章 驚愕すべき『密書』『復讐の夜』『魔女』
クリステンセンを論じる折に必ず代表作として挙げられるのは、デビュー作『密書』、『復讐の夜』(16年)、『魔女』(22年)の初期三作品である。この三作品は79年にフィルムセンターで開催された「デンマーク映画の史的展望」で観ることが出来た。『密書』は主人公の海軍中尉バン・ㇵウェン(クリステンセン)と妻アメリ―(カレン・カスパーセン)、そして敵スパイのスピネリ伯爵(へアケン・スピロ)の三人による海軍の軍事機密を巡るスパイメロドラマとでも言うような内容である。本作には特質すべき事柄がいくつかある。まずロケセットと見間違うような本物主義的なセットが素晴らしく、舞台の書割的セットがまだまだ主流を占めていた当時としては画期的と言えよう。さらに凄いのは室内シーンの正確なローキー撮影とパン・フォーカスを思わせる構図がうまく組み合わされているのである。例えば野外であれば偶然にパン・フォーカス風になることも考えられるが、ローキー撮影という正確に照明をセッティングしなければ不可能な室内撮影では、最初からパン・フォーカスを狙っているとしか思えないのである。また終盤のワンミニッツ・レスキューにおけるクロス・カッティングはデヴィッド・ウォーク・グリフィスを彷彿させる。そう、クリステンセンはまさに1875年生まれのグリフィスとほぼ同じ時代を生きた映画人なのである。グリフフィスは1巻物時代の08年『ドリーの冒険』で監督デビュー。13年の『ベッスリアの女王』で初めて四巻物を手掛けた。『国民の創生』(15年)や『イントレランス』(16年)は『密書』より後の作品なのである。『密書』はこのように当時としては革命的と考えられるアートディレクション、キャメラワーク、カッティングに貫かれた作品として、映画史的にも重要な作品としてもっと評価されて然るべき重要作なのである。
次の『復讐の夜』(16年)もクリステンセン率いるダンスク・ビオグラフ社の製作で、監督のみならず『密書』同様に脚本・主演も勤めたワンマン映画である。新年を祝う公爵家に冤罪ゆえに脱獄したストロング・ジョン(クリステンセン)が赤子を抱えて忍び込み、公爵の娘アン(カーン・サンペア)に助けを求める。だが家族の者の通報によって再び逮捕されたジョンは、アンの裏切りと勘違いして彼女に対する復讐を誓う・・・。本作でも『密書』で試みた室内でのローキー撮影と美術セットの本物主義をさらに推し進めており、早くもベンヤミン・クリステンセンの演出スタイルというものが確立している。これは監督・主演のデビュー作『市民ケーン』(41年)で、いきなり頂点を極めたオーソン・ウェルズを思わせるではないか。映画は成功を収め評判を聞いたアメリカ検閲省が有識者による試写会を開催し、映画の内容から刑務所の受刑者にも観せた。その流れでクリステンセンは、シンシン刑務所を訪れ「悪とは何か」について自問自答したという。これが次の『魔女』(22年)を監督するヒントとなったらしい。
『魔女』の企画を思い立ったクリステンセンは、18年から21年にかけて、背景となる魔術の歴史の研究に没頭したという。『魔女』は全七部からなる構成となっている。一部は魔女についての図柄などによる記録映画的な詳細考察。二部は魔女による毒薬や媚薬などの調合方法の再現ドラマになる。三部、四部、五部にかけて魔女裁判、魔女の拷問、サバトの狂宴が、クライマックスと言うに十分なエグ味をタップリと盛り込んだ迫力で描かれる。六部では拷問道具の数々が人体を使ってかなり綿密に考察される。この辺は、拷問マニア、SMマニアには必見だろう。七部は現代(21年)となり魔女の狂気と精神疾患の関連性が考察される。中世から現代に飛ぶ構成は、グリフィスの『イントレランス』を多分に意識したのかもしれない。再現ドラマと記録映画的考察というパノラミックな構成は、江戸、明治、大正、昭和の拷問の歴史を描いた名和弓雄の原作を、ルポルタージュ風に描いた傑作拷問映画『日本拷問刑罰史』(64年・小森白監督)を思わせる。ともあれドラマが主体の当時において、このような構成と内容で描いた作品は、まさに前代未聞であった。検閲委員会からの厳しい批判によりズタズタにされて公開されたにも拘らず、『魔女』は国際的な成功を収め一躍クリステンセンの名を知らしめた。
『魔女』のヒットを受けクリステンセンは、ドイツのウーファより依頼を受けヴィリー・フレッチ、リル・ダごファー主演『彼の妻、未知の女』(23年)とアレクサンドラ・ゾリーナ、ライオネル・バリモア主演『不評の女』(25年)を監督する。どちらもさして話題になることもなく2作目の『不評の女』は早々と完成していたにも関わらずクリステンセンが、この映画を「自作ではない」と否定していたこともあり25年末まで公開されなかった。ウーファに心地良さを感じなかったクリステンセンは、前から話のあったMGMのルイス・B・メイヤーの招きで渡米することになった。
第四章 ハリウッド狂騒曲
メトロ・ピクチャーズ、ゴールドウィン・ピクチャーズ、ルイス・B・メイヤー・ピクチャーズの所有権を獲得した全米劇場チェーンの総指マーカス・ロウは、24年ルイス・B・メイヤーと組んで、3社を合併してメトロ・ゴールドウィン・ピクチャーズ(MGM)・スタジオを創立した。トップはマーカス・ロウだったが経営権のみで、実質の権力は副社長であるルイス・B・メイヤーが握っていたのである。メイヤーはMGMを世界一のスタジオにすべく世界中から、有望な俳優、監督、スタッフを集めていた。
『魔女』を観たメイヤーは「一体こいつは何者だ!狂人かね?天才かね?」と叫んだという。クリステンセンのハリウッドでの第一作は、26年MGM生え抜きのスターであるノーマ・シアラー主演による『悪魔の曲馬団』であった。母を求めて孤児院を逃げ出したメリー(シアラー)は、悪漢カール(チャールズ・エメット・マック)に騙させそうになるが、カールはメアリーの純情に絆されて愛し合うようになる。だがカールは逮捕され入牢する。メアリーは騙されて曲馬団の曲芸師となるが、嫉妬され空中曲芸中に落下させられて下半身が不自由となる・・・。クリステンセンらしい屈折したキャラクターと凝った美術セットは目を引くが、ハリウッド調にマイルドな分かり易さが求められ大分毒抜きされた印象である。だが映画はヒットし、次作に取り掛かる。
『嘲笑』(27年)は、白軍と赤軍のロシア内戦を背景に、ロン・チェイニイの無学な農民が公爵夫人のバーバラ・ベッドフォードに道ならぬ思慕を抱く。チェイニイが廃屋で疲れた切ったバーバラのブーツを脱がし、生足を洗面器で洗うという足フェチシーンが倒錯的でいい。後半、戦争太りの金持ち夫婦の屋敷に舞台が移るのだが、ここでもやはりローキー撮影やパン・フォーカス、さらにはシャドーを生かした撮影などを駆使しており、画面構成の妙は伺えるのだが、如何せんお話に捻りがなくチェイニイの演技に頼らざる得ないところが欠点であろう。クリステンセンの原作を使用しているのだが、MGM側は「ロシアの話など誰も興味がない」とプロットの改正を求めたがクリステンセンは突っぱねた。映画は会社の予想通りに大コケしてしまったため、クリステンセンの発言権も大幅に失効してしまう。
MGMは最後のチャンスとばかりに、ジュール・ベルヌの「神秘の島」の映画化『竜宮城』(29年)を監督させるが、金のかかる大規模な水中撮影を主張して会社側と衝突し、遂に途中降板(クビ)させられる。映画はモーリス・トゥールヌールが引き継ぐがやはり途中降板し、最後は脚本が本職のルシアン・ハバードが完成した。26年から撮影が開始され29年にようやく完成したが、映画は大コケしてしまった。映画は二色テクニカラーで撮影された最初のSF映画と言われるが、カラープリントの全巻は行方不明だという。映画のクレジットにはトゥールヌールとクリステンセンのクレジットはない。本作はシネマヴェーラ渋谷で観ることが出来た。ヒロインのジャクリーン・ガズデンが、劇中でバイトギャグを噛まされるシーンが出てきて、思わずドキドキしてしまった。ベルヌの原作は「海底二万マイル」の前編的な内容になっているのも興味深い。結局、クリステンセンは本作を最後に、MGMを追い出されてしまう。
クリステンセンは新天地ファーストナショナルで再出発する。因みにファースト・ナショナルは28年9月にワーナー・ブラザーズが過半数の株を獲得し、実質的にワーナーの管理下となった。第一回作品のミルトン・シルス主演『鷲の巣』(28年)は、ニューヨークの“鷹の巣”と呼ばれる密造酒店を舞台にしたギャング映画でチャイナギャングのボス役で上山草人も出演しているらしいのだが、今はロストフィルムとなり観ることは叶わない。チェスター・コンクリン、セルマ・トッド主演の『妖怪屋敷』(28年)は、オーウェン・デイヴィスの舞台劇の映画化で、岡の上の別荘を舞台にしたスリラーもので、サウンド版とサイレント版が製作された。セルマ・トッド、クレイトン・へーる主演の『恐怖の一夜』(29年)は、高価なルビーを巡るスリラーで、上山草人がこちらでも重要な役で出演している。チェスター・コンクリン、ルイズ・ファゼンダ主演の『ダイヤモンド事件』(29年)は、ニューヨークに住む叔父が所有する青ダイヤを狙う宝石密輸一味との攻防を描くスリラー・コメディ。チェスター・コンクリンが降霊術に凝っていて「こっくりさん」をやるのが面白い。本作はそこそこヒットしたものの、結局は低予算のB級映画でクリステンセンもストレスの満足のいくものではなかった。本作を最後に、クリステンセンはハリウッドを去ることとなった。
第五章 その後のクリステンセン
傷心のまま故国デンマークに戻ったクリステンセンだったが、ハリウッド映画の浸食により故国の映画産業も壊滅状態になっていた。そのため映画製作活動もままならず、舞台監督に戻る道しか残されていなかった。やがて10年の歳月が流れた39年に、世代のギャップを描いた社会派メロドラマ『離婚者の子供たち』で、久々の監督復帰を果たす。以降、中絶問題を取り上げた『子供』(40年)、ボデイル・イプセン主演のメロドラマ『ぼくと一緒に家へ行こう』(41年)、スパイスリラー『淡色の手袋の婦人』(42年)と1年1作のペースで監督していたが、資金難もあり監督活動に終止符を打たざる得なかった。44年からはコペンハーゲン郊外にある映画館の館主として、ひっそりと過ごしたという。そして1959年4月2日に80年の生涯を閉じた。
本稿が一代の天才監督であるベンヤミン・クリステンセン再評価の一端になれば嬉しく思う次第である。
(フィルモグラフィ)
密書(兼脚本・主演*デビュー作)(14年)、復讐の夜(兼脚本・主演)(16年)、美しいイルメリン、手と足で(以上短篇、20年)、魔女(兼脚本・出演)(22年)、彼の妻、未知の女(兼脚本)(23年)、不評の女(25年)、悪魔の曲馬団(兼原作・脚色)(26年)、嘲笑(兼脚本)(27年)、鷹の巣、妖怪屋敷(以上28年)、恐怖の一夜、ダイヤモンド事件、竜宮城(ルシアン・ハバード、モーリス・トゥールヌール/共同脚色・共同監督)(以上29年)、離婚者の子供たち(兼脚色)(39年)、子供(兼共同脚色)(40年)、ぼくと一緒に家へ行こう(41年)、淡色の手袋の婦人(兼脚本)(42年*遺作)
(参考文献)「昔むかしデンマークにこんな監督がいた」by北垣善宣~「シネマ・ワンダーランド」(82年・フィルムアート社)収録