新映画原理主義・第12回「プロパガンダからネオレアリズモまで~アウグスト・ジェニーナ」

 

第一章 イタリア修行時代

 

 アウグスト・ジェニーナは1892年1月28日、イタリア王国ラツィオ州ローマ生まれ。良家の出身で大学の工学部に学ぶ傍ら、劇作家の伯父の紹介で雑誌「イル・モンド」に劇評を書く文才も見せる。戯曲にも手を染め、友人の紹介で映画の原案も書き、その一つが採用され映画界の扉を開ける。第一次世界大戦前のイタリア映画界は、スペクタクル史劇が隆盛で、ハリウッドに先駆けて長編映画も製作していた。ジェニーナは脚本を書く一方で監督に転じて、12年短篇『ベアトリス・デステ』で監督デビューを果たす。14年『人を殺す言葉』で初の長編を手掛けるが、15年半ばぐらいまでは、長編と短篇を併用して監督する。ジェニーナがイタリア映画界に入った時期は、『クォ・ヴァディス』(12年・エンリコ・グァッツオー二監督)、『カビリア』(14年・ジョヴァンニ・パストローネ監督)などのスペクタクル史劇で国内のみならず世界を席捲していた時代である。特に『カビリア』は当時としては破格の2時間を超える超大作で、これを観て刺激を受けたデヴィッド・ウォーク・グリフィス監督が『イントレランス』(16年)を製作したという。

 

第二章 ディーヴァの時代と『さらば青春』

 

 10年代半ばになると、隆盛を誇ったスペクタクル史劇もさすがに陰りを見せていた。代わって頭角を表して来たのは作家ガズリエール・ダヌンツィオ原作による現代を舞台にしたロマンティックなメロドラマで“ダヌンツィオ映画”と言われた一連の作品である。嚆矢はダヌンツィオ原作ではないが13年の『されどわが愛は死なず』(マリオ・ガゼリーに監督)で、有名舞台女優のリダ・ボレッリの演技が話題になり映画は大ヒットした。これにより、このジャンルの映画が盛んに製作されることになり、主演女優は“ディーヴァ”と呼ばれスター・システムのはしりとも評され、リダ・ボレッリ、フランチェスカベルティーニ、マリア・ヤコビーニ、ピナ・メニケッリ、イタリア・マルミランテ・マンツィーニなどのディーヴァを輩出した。ビナ・メニケッリ主演『火』(14年・ピエロ・フォスコ監督)、マリオ・ヤコビーニ主演『過去からの呼び声』(22年・ジェンナロ・リゲルリ監督)などが代表作として挙げられる。

ジェニーナはイタリア・アルミランテ・マンツィーニ主演『女』(18年)、マリア・ヤコビーニ主演『さらば青春』(18年)、カルリオーぺ・サンプチーニ主演『火鉢』(20年)を発表した。中でも『さらば青春』は世界中で話題を呼び日本でも大ヒットした。アンドレ・カマジオとニーノ・オクシリアの原作の映画化で、本作に先立つ1913年に原作者たちが映画化しているのでリメイクとなるが、脚色はジェニーナが行っているので彼の色合いがより強い内容となっている。田舎から大都会トリノに来た法律学生マリオ(リード・マネッティ)は下宿屋の娘ドリーナ(マリア・ヤコビーニ)と若者らしい無邪気な恋をする。だが妖艶な人妻エレナ(エレナ・マコウスカ)に心を奪われ下宿を去る。だが結局マリオは捨てられ勉学に勤しみ、優等で大学を卒業する。マリオは晴れて田舎へ凱旋することになるが、それを知ったドリーナは彼の下宿を訪ねる。久しぶりに再会した二人は、かたく抱き合う。だがマリオは老いた両親の待つ田舎へ帰らねばならない。二人は思いを残しながらも別れなければならなかった。陸橋の上からドリーナがマリオの乗った列車の屋根に花束を投げ、列車の煙が彼女を包むラストシーンは有名である。ロマンティズム一辺倒のダヌンツィオ映画からヒロインの生活描写にリアリズム臭を加えて、より深みのある作品に仕上げている。カルリオーぺ・サンプチ―ニ主演『火鉢』(20年)は、ピランデルロ原作ということもありよりリアリスティックに運命の皮肉が描かれており、ロマンティックなメロドラマというよりも戦後のネオレアリズモに近い内容となっている。これは第一世界大戦終結後の世相を反映しているように思える。

 

第三章 プロパガンダ映画への道

 

 20年代以降のジェニーナは本国イタリアは勿論のこと、フランス、ドイツを股にかけた売れっ子ぶりでジャンルを問わぬアルチザンとしての仕事ぶりであった。24年には同郷の女優カルメン・ボニと結婚し、彼女主演で『最後の殿様』(26年)、『さらば青春(リメイク版)』(27年)、『ピッコラ・パリの物語』『スカンボロ』『姫君は文士がお好き』(以上28年)『男の中の女』『嫉妬しないで』(以上32年)などを監督した。因みにボニとは34年に離婚。この間で重要な作品はハリウッドスターながらG・W・パブスト監督に招かれ『パンドラの箱』『淪落女の日記』(以上29年)に出演したルイーズ・ブルックス主演のフランス映画『ミス・ヨーロッパ』(30年)である。これはルネ・クレールが脚本を書いた小洒落たコメディで、ジェニーナが職人ぶりを見せて大ヒットした。本作によりジェニーナの名は高まり益々売れっ子監督となった。

 イタリアでは22年にベニート・ムッソリーニがローマへの進軍を行い彼の率いるファシスト党が政権を握った。ムッソリーニは映画好きとしても知られ、32年にヴェネチア国際映画祭を立ち上げ、37年にはヨーロッパ最大の撮影所チネチッタを建設した。ジェニーナにもムッソリーニよりプロパガンダ映画の御鉢が回って来る。最初の国策映画は36年の『リビヤ白騎隊』で、リビヤ砂漠に駐屯するイタリア部隊の活躍を描きヴェネチア映画祭で最高賞となるムッソリーニ杯を受賞した。巨大な砂漠とちっぽけな人間の対比をそれとなく見せる演出の隠し味はジェニーナの名人芸といえよう。『アルカサル包囲戦』(40年)『ベンガジ』(42年)はジェニーナのプロパガンダ映画三部作で、何れもムッソリーニ杯を受賞しているが、内容は戦意高揚よりも戦時下の人々の苦悩の描写がより勝っているように感ぜられる。『ベンガジ』はジェニーナにとって、戦前最後の作品となった。

 

第四章 ネオレアリズモへの接近

 

 ジェニーナの戦後第一作は、聖人マリア・ゴレッティを描いた50年の『沼の上の空』であった。イタリア貧農の生活がネオレアリズモタッチで描かれているが、終盤はかなりメロドラマチックになって統一を欠いた印象ながら、中々の力作であった。当時はネオレアリズモの時代であり、戦前派の巨匠たるジェニーナと言えども影響を受けざる得なかったのだろう。だがこの後はネオレアリズモを進化させることもなく寡作ながらマイペースで作品を作り続けた。最後の作品は55年のフランス・イタリア合作によるカラーシネマスコープの大作『フルフル』である。20世紀初頭から40年に渡りパリに生きた花売り娘の物語。当時大人気のダニー・ロバンが花売り娘に扮して、16歳から50歳までを演じた。生きのいいロバンに感化されたかのようなジェニーナの若々しい演出にも注目したい。この後もいくつか企画があったようだが、1957年9月18日にまだまだ働き盛りの65歳で死去した。

 ジェニーナは戦前派の巨匠ゆえ失われた作品や未見作が多いため、完全な評価がまだまだ見い出せないが、ディーヴァの時代、売れっ子のアルチザン時代、プロパガンダ映画、ネオレアリズモへの挑戦とその果敢な好奇心は十分評価されるべきであろう。

 

(フイルモグラフィ)

ベアトリス・デステ、遅すぎる!(以上12年・短篇)、閣下の夫人、壊れた鎖(以上13年・短篇)、人を殺す言葉(14年・初長編)、ルル、小さな燭台、無実の叫び、若者の勝利!、モンロー城の謎(以上14年・短篇)、ダイヤモンドの逃走、大晦日が終わってから、ダイヤモンドの征服、恋人たちの逃避行、シヴァの指輪(以上14年)、コモのお花屋さん、13馬力エンジン(以上短篇)、真夜中、嫉妬(短篇)、黄金の羽を持つ蝶、二重の傷、究極の変装、百馬力(以上15年)、ある日の夢、ミス・サイクロン、生存者、王冠のドラマ(以上16年)、ほたる、おてんば娘、カリーダ・ミイラの物語、不滅の血族(以上17年)、うそ、王座の椅子、女、さらば青春、移民、半生の紅涙(以上18年)、感激は何処に、仮面と素顔、ノリス(ユゲニオ・ペレゴ共同監督)、ビジューの冒険、ルクレチア・ボルジア、素敵なアミ(以上19)、二つの十字架、月光の曲、暗を行く影、悪徳の輪、火鉢、神の冒険(以上20年)、痛いこと、三人の感傷主義者、悪魔たち、黒い点、危機、鎖に繋がれたもの、夫・妻・そして・・・(以上21年)、通りがかった女性、憂鬱の城、ルシード・取れクール(カミロ・デ・リン共同監督)、罪のない罪人(以上22年)、ジャーメイン、シラノ・ド・ベルジュラック、コルセア(短篇・カルミネ・ガローネ共同監督)(以上23年)、美しい妻(24年)暖灯が消えた(25年)、最後の殿様(26年)、さらば青春!、白人の奴隷、上海の囚人(ゲザ・フォン・ボルヴァリイ共同監督)(以上27年)、ピッコラ・パリの物語、スカンボロ、姫君は文士がお好き(以上28年)、ラテン街の屋根裏、16才のドラマ(以上29年)、ミス・ヨーロッパ(30年*初トーキ)、真夜中の恋(マルク・アレグレ共同監督、仏版)、真夜中の恋(カール・フレーリッヒ共同監督、独版)、パリー恋人(以上31年)、男の中の女、嫉妬しないで(以上32年)、私たちはもう子供じゃない(34年)、私を忘れないで(独版)、私を忘れないで(伊版)(以上35年)、キメラゴンドラ、リヴィア白騎隊、ニースからの花(以上36年)、女の愛、女の苦しみ、ナポリと火の口づけ(以上37年)、空中の城(39年)、アルカサル包囲戦(40年)、ベンガジ(42年)、沼の上の空(49年)、つた(50年)、三つの禁断の物語(52年)、マドレーナ(54年)、フルフル(55年*遺作)

*日本未公開作品は伊・仏・独語の直訳題名

新映画原理主義・第11回「セミドキュメント戦争映画の名手~チャールズ・フレンド」

 

第一章 英国有数の名編集者

 

 チャールズ・フレンドは1909年11月21日、英国サセックス州バルボロ―生まれ。カンタベリーのキングズ・スクールからオックスフォードのトリニティ・カレッジで学ぶ。アイシスマガジンでは、映画評論を書いた。

 1931年ブリティッシュ・インターナショナル・ピクチャーズに入社。編集部に配属され『Arms and the Man』(32年・セシル・ルイス監督)で編集者デビューする。ゴーモン・ブリテイッツシュ・ピクチャーズに移り、同社プロデューサーのマイケル・バルコンの下で働き多くのことを学ぶ。早くも編集の腕を買われて、中堅監督としてめきめきと台頭して来たアルフレッド・ヒッチコック監督の『ウィーンからのワルツ』(34年)『暗殺者の家』『サボタージュ』(以上36年)にも起用され編集スキルに磨きをかけた。この間、アレクサンダー・コルダのロンドンフィルムにも貸し出され大作『The Conquest of the Air』(36年)の編集を担当しただけでなくナレーターまで兼任する多才ぶりだった。ゴーモン・ブリティッシュに戻りリチャード・アーレン主演『大いなる障壁』(36年)とヒッチコックの『若くて無邪気』(37年)を編集した。

 バルコンがデンハム・フィルム・スタジオのMGMブリティッシュに移ることになり、フレンドも帯同する。『オックスフォードのヤンキー』(38年・ジャック・コンウェイ監督)やロバート・ドーナット主演『城砦』(38年・キング・ヴィダー監督)、ロバート・ドーナットがアカデミー主演男優賞を受賞した『チップス先生さようなら』(39年・サム・ウッドシドニー・フランクリン監督)を編集。再びアレクサンダー・コルダに招聘され『ライオンには翼がある』(39年)と『バーバラ少佐』(41年・ガブリエル・パスカル監督)を担当し、英国有数の編集者としての地位を確立していた。だが本人としては、やはり全てを統括出来る監督を予てから希望していた。

 

第二章 セミドキュメント戦争映画の名手

 

 マイケル・バルコンは38年にイーリング・スタジオの所長に就任する。慢性的な赤字体質のスタジオの再建のために、首脳陣は剛腕で鳴らしたバルコンを招聘した。バルコンは予てからドキュメンタリー映画の可能性を模索しており、ドキュメンタリーとドラマの中庸、即ち“セミドキュメンタリー”の手法をスタジオの売りにしようと考えた。そのためハリー・ワットなどのドキュメンタリー映画の監督や、新人監督をどんどん起用した。以前から編集者から監督への転向を訴えていたチャールズ・フレンドにも42年に監督デビューのチャンスが与えられた。

 『大規模封鎖』はバトル・オブ・ブリテンの勝利後で制空権を失った独軍を、今度は経済的に追い詰めようという作戦を描いたもの。ハンプデン爆撃機によるドイツ本土の工場の爆撃と世界各国からドイツに入港する船をドーバー海峡でせき止める。製造と補給路を断たれたドイツ軍は困窮を強いられる。ハンプトン爆撃機にはマイケル・レニーとジョン・ミルズが搭乗し、中立的でユーモラスなロシア人にマイケル・レッドグレ―ヴ、狂信的なドイツ軍将校にロバート・モーリイというキャステイングも充実。フレンドはセミドキュメントタッチで各パートをテキパキと処理し上々の成果を挙げた。

 長編第三作『船団最後の日』(44年)は1940年に英国を出航したサン・デメトリオ号と護衛艦による船団は、アメリカのテキサスで石油を満載して帰還。大西洋でドイツ軍戦艦ドミラルの砲撃を受け船は炎上。チーフエンジニアのウォルター・フイッツジェラルド以下、ゴードン・ジャクソンら乗組員はボートで脱出し漂流するが、再び母船に戻り火災を消火。必死の修理活動でエンジンがかかり、アイルランドの港へたどり着く。これは実際に起きた事件を元にしているので、セミドキュメンタリータッチがより一層生きた力作であった。ただ撮影の終盤にフレンドが病気となり、ロバート・ヘイマーが引き継いで完成させた。

 『怒りの海』(53年)は第二次大戦下の英国海軍の船団護衛艦コンパス・ローズの艦長エリクソン少佐(ジャック・ホーキンズ)による乗組員教育と戦いの日々を描いた大作。ニコラス・モンサラットの戦記小説の映画化ゆえ繰り返される日常性にドキュメンタリータッチが生きている。艦長役のジャック・ホーキンスがさすがの渋い存在感。脇役でスタンリー・ベイカーが乗組員役で出演している。本作は英国でこの年一番のヒット作となった。

 『潜水艦ベターソン』(63年)はイギリスとイタリアの合作戦争映画。1941年、伊潜水艦ベターソンのレオナルド艦長(ガブリエル・フェルゼッティ)はジブラルタル海峡の突破を試みるも、英海軍のブレイン司令官(ジェームズ・メイソン)によって阻止される。両雄は中立国であるスペインに上陸し、暫しの交流と安らぎを得る。再び戦火が切られベターソンは英軍駆逐艦を撃破して、ジブラルタル海峡を突破する。事実に基づいているとは言え英軍が敵軍に花を持たせるのは珍しいが、独軍ではなく伊軍なので許容範囲なのかもしれない。演出にいつものキレがないのは、伊側に共同監督を立てていることもありモチベーションが今一だったのだろうか。

 

第三章 セミドキュメントの到達点『南極のスコット』

 

 『愛の海峡』(45年)は英仏協調主義をテーマにした国策映画。第二次大戦直前、英仏海峡ぞい英コーンウォール漁村では、対岸の仏ブルターニュから英側の見張りナット(トム・ウォリス)の目をかいくぐって密漁に来る女頭目フロリー(フランソワーズ・ロゼ―)率いる漁夫たちに迷惑していた。だが戦争が始まり独軍に追われた女頭目たちは、ナットの村に逃げ込んでくる。当初は反目していた両者だが共通の敵への対抗心もあり一致協力の体制が生まれる。地方色をうまくドラマに取り入れて人間ドラマを形成するフレンドの手腕は中々のもの。

 2回目の南極極点を目指して死去したロバート・スコット海軍大佐の準備と挑戦を描いた『南極のスコット』(48年)は、探検ものの古典的傑作となった。最初の探検失敗により国からの補助が難しくなり、講演などで資金集めに苦労するが、遂に十分とは言えないまでも国からの補助金が出て晴れて2度目の南極探検へと出発する。北極点を目指していた最大のライバルであるノルウェーアムンゼンが米国探検隊に先を越され、南極へ目標を転換したと聞き、スコットは焦りを隠せない。極点を目指して出発し、最後はスコットを含めた精鋭5人による挑戦となった。ようやく極点に辿り着くが、そこには既にアムンゼンノルウェー国旗が棚引いていた。失意のまま帰還する5人だったが、状況は厳しく二人が死去。残る三人も前進基地へあと少しの地点で最期を遂げる。実話の映画とはいえこのラストは悲痛である。マイケル・バルコンによるセミドキュメンタータッチ(別名バルコン・タッチ)が最大限に生かされており、イーリング・スタジオにとっても世界中でヒットしたマイルストーン的な作品と言えよう。

 

第四章 混迷するフレンド

 

 『南極のスコット』以降のフレンドは、『怒りの海』や『潜水艦ベターソン』など2、3の例外を除いてコメディに転向し、いわゆる“イーリング・コメディ”を手掛けるようになった。『南極のスコット』の大成功が、堅実派たるフレンドの重荷になってしまったのだろうか。55年にイーリング・スタジオがBBCに売却され、兄貴分たるマイケル・バルコンが所長を退任したのもフレンドの積極的な活動に影響を与えた。ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞したジャック・ホーキンス主演の犯罪もの『ロング・アーム』が未見なのが残念である。

 最後の監督作品は67年の児童映画『空飛ぶ自転車』であった。70年にはデヴィッド・リーン監督、ロバート・ミッチャム、サラ・マイルズ主演の70ミリ大作『ライアンの娘』で、第二班監督を勤めたのが最後のご奉公だったのだろうか。

 

(フィルモグラフィ)

大規模封鎖(42年)、大砲奪還作戦、The Savage Grav(短篇)(以上43年)、船団最後の日(44年・ロバート・ヘイマー共同監督)、愛の海峡(45年)、ジョアンナ・ゴデンの愛(47年・ロバート・ヘイマー共同監督)、南極のスコット(48年)、お金のために逃げる(49年)、マグネット(50年)、怒りの海(53年)、Lease of Life(54年)、ロング・アーム(56年)、Barnacle Bill(57年)、Cone of Silence(60年)、Girl on Approval(61年)、潜水艦べターソン(63年・ブルーノ・バイラティ共同監督)、空飛ぶ自転車(67年)、ライアンの娘(70年、デヴィッド・リーン監督*第二班監督)

(編集)

Arms and the Man(32年・セシル・ルイス監督)、ウィーンからのワルツ(アルフレッド・ヒッチコック監督)、My song for you(モーリス・エルヴィ監督)(以上34年)、Oh、Daddy!(グラハム・カッツ、オースティン・メルフォード、レスリー・ヘンソン監督)、Fighting Stock(トム・ウォールズ監督)、トンネル(モーリス・エルヴィ監督)、Car of Dream(グラハム・カッツ、オーステイン・メルフォード監督)(以上35年)、暗殺者の家(アルフレッド・ヒッチコック監督)、Eeast meets West(ハーバート・メーソン監督)、サボタージュアルフレッド・ヒッチコック監督)、The Conquest of the Air(アレクサンダー・エスウェイ、ゾルタン・コルダ、ドナルド・テイラー、ジョン・モンク・サンダース、アレクサンダー・ショウ共同監督*兼ナレーター)、大いなる障壁(ミルトン・ロズマー、ジョフリー・バーカース監督)(以上36年)、若くて無邪気(37年、アルフレッド・ヒッチコック監督)、オックスフォードのヤンキー(ジャック・コンウェイ監督)、城砦(キング・ヴィダー監督)、(以上38年)、チップス先生さようならサム・ウッドシドニー・フランクリン監督)、ライオンには翼がある(エイドリアン・ブルネル、マイケル・パウェル、ブライアン・デズモンド・ハースト共同監督)(以上39年)、バーバラ少佐(41年・ブリエル・パスカル監督)、大規模封鎖(42年・自作)

新映画原理主義・第十回「時代を通じての妖術~ ベンヤミン・クリステンセン

 

第一章 役者としての出発 

 

  ベンヤミン・クリステンセンは、1879年9月28日、デンマークのヴィボルグで12人兄弟の末っ子として生まれた。彼は当初医学を学んでいたが、演技に興味を持ち1901年にコペンハーゲンのデット・コンゲリーゲ劇場(デンマーク王立劇場)で勉強を始めた。クリステンセンのプロ俳優としてのキャリアは、07年に港湾都市オークスにあるオーフス劇場で始まったと言われているが、一時ワインのセールスマンをして生計を立てていたという話もあり、それまでの経歴には不明な点も多い。オーフス劇場ではオペラ歌手としてデビューも果たしたが、極度のステージ恐怖症で観客の前で歌うことが出来なくなったという。しかしながら同劇場の専属舞台監督となり、オペラのプロデュースもしている。

 11年にはダンクス・ビオグラフ社の『運命の帯』(スペン・リンドム監督)に俳優として初出演して、始めて映画界との関りを持つことになった。続いて『舞台の子供たち』(13年・ビョルン・ビョルンソン監督)に出演し、『小さなクラウスと大きなクラウス』(13年・エリト・レウマート監督)では、主役である大きなクラウス役で主演を果たす。第七芸術たる映画産業に俄然興味を抱いたクリステンセンは、ヘルボルグに本拠を置き初出演した『運命の帯』の制作会社であるダンスク・ビオグラフ社の経営権を引き継いだこともあり、14年、『密書』で監督デビューを果たすことになる。

 

第二章 ドライエルとクリステンセン

 

 デンマークの世界的巨匠と言えば誰もが、『裁かるゝジャンヌ』(28年)『吸血鬼』(31年)『怒りの日』(43年)『奇跡』(55年)『ゲアトルード』(64年)など映画史に残る作品で知られるカール・テオドール・ドライエルを思い浮かべるであろう。ドライエルの知名度が先行し過ぎているために彼の方がクリステンセンより先輩と思われがちなのだが、実際は1889年生まれのドライエルは1879年生まれのクリステンセンより10歳も年下なのである。キャリア的にも19年に『裁判長』で監督デビューしたドライエルに比べ、クリステンセンは14年に『密書』で監督デビューを果たしており、映画キャリアでも先輩なのである。監督になる前はジャーナリストをしていたドライエルが、国内でそれなりに話題となったクリステンセンの『密書』と『復讐の夜』を観ていないとは考えにくく、当時からそれなりの関係性を築いていたと思われる。   

 その証拠にドライエルとクリステンセンはドイツに招かれ監督をすることになった際。ドライエルは自作『ミカエル』(24年)において主役の画家クロード・ゾレ役にクリステンセンを起用しているのである。『ミカエル』はエリック・ポーマー製作、テア・フォン・ハルボウ脚本という極めてドイツ色の強い内容となっている。主役の画家クロード・ゾレはモデルの美青年ミカエル(ウォルター・スレザック)にホモセクショナルな感情を抱いているが当時の規制により、その辺は曖昧な描写となっている。ミカエルはゾレの感情にはどこ吹く風で、美しい公爵夫人(ノラ・グレゴール)と逢瀬を楽しんでいるのだが・・・。クリステンセンは苦悩の画家役を好演し、ドライエル作品の一翼を担った。因みに美青年ミカエルを演じるのは当時22歳のウォルター・スレザック(映画出演2作目)で、後年ハリウッド映画に出演し『救命艇』(44年・アルフレッド・ヒッチコック監督)、『船乗りシンバッドの冒険』(46年・リチャード・ウォーレス監督)などにおけるでっぷりと太った悪役の面影はない。歳月とは恐ろしいものだ。ドライエルはかつてクリステンセンについて「自分が何を望んでいるかを正確に理解し、妥協のない頑固さで目標を追求した音である。」と評している。

 

第三章 驚愕すべき『密書』『復讐の夜』『魔女』

 

 クリステンセンを論じる折に必ず代表作として挙げられるのは、デビュー作『密書』、『復讐の夜』(16年)、『魔女』(22年)の初期三作品である。この三作品は79年にフィルムセンターで開催された「デンマーク映画の史的展望」で観ることが出来た。『密書』は主人公の海軍中尉バン・ㇵウェン(クリステンセン)と妻アメリ―(カレン・カスパーセン)、そして敵スパイのスピネリ伯爵(へアケン・スピロ)の三人による海軍の軍事機密を巡るスパイメロドラマとでも言うような内容である。本作には特質すべき事柄がいくつかある。まずロケセットと見間違うような本物主義的なセットが素晴らしく、舞台の書割的セットがまだまだ主流を占めていた当時としては画期的と言えよう。さらに凄いのは室内シーンの正確なローキー撮影とパン・フォーカスを思わせる構図がうまく組み合わされているのである。例えば野外であれば偶然にパン・フォーカス風になることも考えられるが、ローキー撮影という正確に照明をセッティングしなければ不可能な室内撮影では、最初からパン・フォーカスを狙っているとしか思えないのである。また終盤のワンミニッツ・レスキューにおけるクロス・カッティングはデヴィッド・ウォーク・グリフィスを彷彿させる。そう、クリステンセンはまさに1875年生まれのグリフィスとほぼ同じ時代を生きた映画人なのである。グリフフィスは1巻物時代の08年『ドリーの冒険』で監督デビュー。13年の『ベッスリアの女王』で初めて四巻物を手掛けた。『国民の創生』(15年)や『イントレランス』(16年)は『密書』より後の作品なのである。『密書』はこのように当時としては革命的と考えられるアートディレクションキャメラワーク、カッティングに貫かれた作品として、映画史的にも重要な作品としてもっと評価されて然るべき重要作なのである。

 次の『復讐の夜』(16年)もクリステンセン率いるダンスク・ビオグラフ社の製作で、監督のみならず『密書』同様に脚本・主演も勤めたワンマン映画である。新年を祝う公爵家に冤罪ゆえに脱獄したストロング・ジョン(クリステンセン)が赤子を抱えて忍び込み、公爵の娘アン(カーン・サンペア)に助けを求める。だが家族の者の通報によって再び逮捕されたジョンは、アンの裏切りと勘違いして彼女に対する復讐を誓う・・・。本作でも『密書』で試みた室内でのローキー撮影と美術セットの本物主義をさらに推し進めており、早くもベンヤミン・クリステンセンの演出スタイルというものが確立している。これは監督・主演のデビュー作『市民ケーン』(41年)で、いきなり頂点を極めたオーソン・ウェルズを思わせるではないか。映画は成功を収め評判を聞いたアメリカ検閲省が有識者による試写会を開催し、映画の内容から刑務所の受刑者にも観せた。その流れでクリステンセンは、シンシン刑務所を訪れ「悪とは何か」について自問自答したという。これが次の『魔女』(22年)を監督するヒントとなったらしい。

 『魔女』の企画を思い立ったクリステンセンは、18年から21年にかけて、背景となる魔術の歴史の研究に没頭したという。『魔女』は全七部からなる構成となっている。一部は魔女についての図柄などによる記録映画的な詳細考察。二部は魔女による毒薬や媚薬などの調合方法の再現ドラマになる。三部、四部、五部にかけて魔女裁判、魔女の拷問、サバトの狂宴が、クライマックスと言うに十分なエグ味をタップリと盛り込んだ迫力で描かれる。六部では拷問道具の数々が人体を使ってかなり綿密に考察される。この辺は、拷問マニア、SMマニアには必見だろう。七部は現代(21年)となり魔女の狂気と精神疾患の関連性が考察される。中世から現代に飛ぶ構成は、グリフィスの『イントレランス』を多分に意識したのかもしれない。再現ドラマと記録映画的考察というパノラミックな構成は、江戸、明治、大正、昭和の拷問の歴史を描いた名和弓雄の原作を、ルポルタージュ風に描いた傑作拷問映画『日本拷問刑罰史』(64年・小森白監督)を思わせる。ともあれドラマが主体の当時において、このような構成と内容で描いた作品は、まさに前代未聞であった。検閲委員会からの厳しい批判によりズタズタにされて公開されたにも拘らず、『魔女』は国際的な成功を収め一躍クリステンセンの名を知らしめた。

 『魔女』のヒットを受けクリステンセンは、ドイツのウーファより依頼を受けヴィリー・フレッチ、リル・ダごファー主演『彼の妻、未知の女』(23年)とアレクサンドラ・ゾリーナ、ライオネル・バリモア主演『不評の女』(25年)を監督する。どちらもさして話題になることもなく2作目の『不評の女』は早々と完成していたにも関わらずクリステンセンが、この映画を「自作ではない」と否定していたこともあり25年末まで公開されなかった。ウーファに心地良さを感じなかったクリステンセンは、前から話のあったMGMのルイス・B・メイヤーの招きで渡米することになった。

 

第四章 ハリウッド狂騒曲

 

 メトロ・ピクチャーズ、ゴールドウィン・ピクチャーズ、ルイス・B・メイヤー・ピクチャーズの所有権を獲得した全米劇場チェーンの総指マーカス・ロウは、24年ルイス・B・メイヤーと組んで、3社を合併してメトロ・ゴールドウィン・ピクチャーズ(MGM)・スタジオを創立した。トップはマーカス・ロウだったが経営権のみで、実質の権力は副社長であるルイス・B・メイヤーが握っていたのである。メイヤーはMGMを世界一のスタジオにすべく世界中から、有望な俳優、監督、スタッフを集めていた。

『魔女』を観たメイヤーは「一体こいつは何者だ!狂人かね?天才かね?」と叫んだという。クリステンセンのハリウッドでの第一作は、26年MGM生え抜きのスターであるノーマ・シアラー主演による『悪魔の曲馬団』であった。母を求めて孤児院を逃げ出したメリー(シアラー)は、悪漢カール(チャールズ・エメット・マック)に騙させそうになるが、カールはメアリーの純情に絆されて愛し合うようになる。だがカールは逮捕され入牢する。メアリーは騙されて曲馬団の曲芸師となるが、嫉妬され空中曲芸中に落下させられて下半身が不自由となる・・・。クリステンセンらしい屈折したキャラクターと凝った美術セットは目を引くが、ハリウッド調にマイルドな分かり易さが求められ大分毒抜きされた印象である。だが映画はヒットし、次作に取り掛かる。

 『嘲笑』(27年)は、白軍と赤軍のロシア内戦を背景に、ロン・チェイニイの無学な農民が公爵夫人のバーバラ・ベッドフォードに道ならぬ思慕を抱く。チェイニイが廃屋で疲れた切ったバーバラのブーツを脱がし、生足を洗面器で洗うという足フェチシーンが倒錯的でいい。後半、戦争太りの金持ち夫婦の屋敷に舞台が移るのだが、ここでもやはりローキー撮影やパン・フォーカス、さらにはシャドーを生かした撮影などを駆使しており、画面構成の妙は伺えるのだが、如何せんお話に捻りがなくチェイニイの演技に頼らざる得ないところが欠点であろう。クリステンセンの原作を使用しているのだが、MGM側は「ロシアの話など誰も興味がない」とプロットの改正を求めたがクリステンセンは突っぱねた。映画は会社の予想通りに大コケしてしまったため、クリステンセンの発言権も大幅に失効してしまう。

 MGMは最後のチャンスとばかりに、ジュール・ベルヌの「神秘の島」の映画化『竜宮城』(29年)を監督させるが、金のかかる大規模な水中撮影を主張して会社側と衝突し、遂に途中降板(クビ)させられる。映画はモーリス・トゥールヌールが引き継ぐがやはり途中降板し、最後は脚本が本職のルシアン・ハバードが完成した。26年から撮影が開始され29年にようやく完成したが、映画は大コケしてしまった。映画は二色テクニカラーで撮影された最初のSF映画と言われるが、カラープリントの全巻は行方不明だという。映画のクレジットにはトゥールヌールとクリステンセンのクレジットはない。本作はシネマヴェーラ渋谷で観ることが出来た。ヒロインのジャクリーン・ガズデンが、劇中でバイトギャグを噛まされるシーンが出てきて、思わずドキドキしてしまった。ベルヌの原作は「海底二万マイル」の前編的な内容になっているのも興味深い。結局、クリステンセンは本作を最後に、MGMを追い出されてしまう。

 クリステンセンは新天地ファーストナショナルで再出発する。因みにファースト・ナショナルは28年9月にワーナー・ブラザーズ過半数の株を獲得し、実質的にワーナーの管理下となった。第一回作品のミルトン・シルス主演『鷲の巣』(28年)は、ニューヨークの“鷹の巣”と呼ばれる密造酒店を舞台にしたギャング映画でチャイナギャングのボス役で上山草人も出演しているらしいのだが、今はロストフィルムとなり観ることは叶わない。チェスター・コンクリン、セルマ・トッド主演の『妖怪屋敷』(28年)は、オーウェン・デイヴィスの舞台劇の映画化で、岡の上の別荘を舞台にしたスリラーもので、サウンド版とサイレント版が製作された。セルマ・トッド、クレイトン・へーる主演の『恐怖の一夜』(29年)は、高価なルビーを巡るスリラーで、上山草人がこちらでも重要な役で出演している。チェスター・コンクリン、ルイズ・ファゼンダ主演の『ダイヤモンド事件』(29年)は、ニューヨークに住む叔父が所有する青ダイヤを狙う宝石密輸一味との攻防を描くスリラー・コメディ。チェスター・コンクリンが降霊術に凝っていて「こっくりさん」をやるのが面白い。本作はそこそこヒットしたものの、結局は低予算のB級映画でクリステンセンもストレスの満足のいくものではなかった。本作を最後に、クリステンセンはハリウッドを去ることとなった。

 

第五章 その後のクリステンセン

 

 傷心のまま故国デンマークに戻ったクリステンセンだったが、ハリウッド映画の浸食により故国の映画産業も壊滅状態になっていた。そのため映画製作活動もままならず、舞台監督に戻る道しか残されていなかった。やがて10年の歳月が流れた39年に、世代のギャップを描いた社会派メロドラマ『離婚者の子供たち』で、久々の監督復帰を果たす。以降、中絶問題を取り上げた『子供』(40年)、ボデイル・イプセン主演のメロドラマ『ぼくと一緒に家へ行こう』(41年)、スパイスリラー『淡色の手袋の婦人』(42年)と1年1作のペースで監督していたが、資金難もあり監督活動に終止符を打たざる得なかった。44年からはコペンハーゲン郊外にある映画館の館主として、ひっそりと過ごしたという。そして1959年4月2日に80年の生涯を閉じた。

 本稿が一代の天才監督であるベンヤミン・クリステンセン再評価の一端になれば嬉しく思う次第である。

 

(フィルモグラフィ)

密書(兼脚本・主演*デビュー作)(14年)、復讐の夜(兼脚本・主演)(16年)、美しいイルメリン、手と足で(以上短篇、20年)、魔女(兼脚本・出演)(22年)、彼の妻、未知の女(兼脚本)(23年)、不評の女(25年)、悪魔の曲馬団(兼原作・脚色)(26年)、嘲笑(兼脚本)(27年)、鷹の巣、妖怪屋敷(以上28年)、恐怖の一夜、ダイヤモンド事件、竜宮城(ルシアン・ハバード、モーリス・トゥールヌール/共同脚色・共同監督)(以上29年)、離婚者の子供たち(兼脚色)(39年)、子供(兼共同脚色)(40年)、ぼくと一緒に家へ行こう(41年)、淡色の手袋の婦人(兼脚本)(42年*遺作)

 

(参考文献)「昔むかしデンマークにこんな監督がいた」by北垣善宣~「シネマ・ワンダーランド」(82年・フィルムアート社)収録

新映画原理主義・第九回「ワイルドで行こうぜ!~コーネル・ワイルド

 

第一章 ハンガリーからアメリカへ

 

 コーネル・ワイルドは1912年10月13日、ハンガリーのプリュエヴィドザ(現在はスロヴァキアの一部)に、ユダヤ人家庭のコルネル・ラヨス・ワイズとして生まれた。1920年、8歳の時に両親と姉と共にニューヨークへ移住した。家族はみな英語名に改名し、コーネルもコーネリアス・ルイス・ワイルドと名を改めた。ニューヨークのタウンゼントハリス高校を卒業し、ニューヨーク市立大学シティカレッジの医学部に入学し奨学金を受けるが、演劇熱に侵されてシオドア・アーウィン演劇研究所に通い大学は一年で中退してしまう。一方、米国オリンピックチームの主将も務めており、36年のベルリン・オリンピックへの出場も決まっていた。だが、これも演劇の大役が決まったために直前にチームを辞めてしまう。(*オリンピックに米国代表のフェンシング選手として出場した、という通説が長い間流布していた。)フェンシングの遠征などでヨーロッパを転戦したおかげもあり、英語は勿論、母国のハンガリー語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語の六か国語が堪能というインテリである。 

 ちょっとしたコネがあり、36年のパラマウント映画「リズムパーティ」(フレッド・ウォーラー監督)という短篇で、パーティ客として映画デビューを果たすものの、次には繋げるのは困難であった。37年にはマージョリーハインツェン(後の女優パトリシア・ナイト)と結婚する。仕事を得るために年齢を3歳サバを読み、名前も分かり易くコーネル・ワイルドと改めた。1915年、ニューヨーク生まれ、という公式プロフィールは、この頃に作られたものであろう。

 

第二章 ハリウッドで俳優稼業 

 

 40年のブロードウェイ公演、ローレンス・オリヴィエとヴィビアン・リー主演の「ロミオとジュリエット」で、フェンシングの腕を買われてフェンシング指導と共にティボルト役も獲得する。これを観劇したワーナー・ブラザーズ関係者にスカウトされて契約する。ミリアム・ホプキンス主演『赤い髪の女』(40年・カーティス・バーンハート監督)にノンクレジット出演後、ボギーの出世作である『ハイ・シェラ』(41年・ラオール・ウォルシュ監督)で本格的デビューする。だがWBの待遇に不満を抱き、同年20世紀フォックスへ移籍して『パーフェクト・スノッブ』(レイ・マッカレイ監督)で早くも初主演を果たす。モンテ・ウーリイ、アイダ・ルピノ共演の『人生の始まる夜』(42年・アーヴィング・ピチュエル監督)では、脚の悪いルピノと恋仲となる音楽家青年を好演。これが45年の『楽聖ショパン』(チャールズ・ヴィダー監督)に繋がった。母国の偉人でもある主役のフレデリック・ショパン役を熱演したワイルドは、アカデミー賞主演男優賞にノミネートされるという快挙を成し遂げた。同じハンガリー出身のヴィダー監督の好演出もあり、ワイルドにとって生涯の代表作となった。

 その後は『哀愁の湖』(45年・ジョン・M・スタール監督)、『永遠のアムバア』(47年・オットー・プレミンジャー監督)と言ったロマンチックな役処と、『千一夜物語・魔法のランプ』(45年・アルフレッド・E・グリーン監督)、『戦うロビン・フッド』(46年・ジョージ・シャーマン、ヘンリー・レヴィン監督)では、剣戟スターとしての資質を見せた。またフィルムノワールとしてはリチャード・ウィドマークアイダ・ルピノ共演の『深夜の歌声』(48年・ジーン・ネグレスコ監督)、サミュエル・フラー脚本、ダグラス・サーク監督の異色コンビによる『ショックプルーフ』(49年)が印象的。『ショック~』は、当時結婚していたパトリシア・ナイトとワイルドの珍しい共演作であった。

 

第三章 スター俳優としての低迷

 

 50年代に入るとアカデミー作品賞を受賞した『地上最大のショウ』(52年・セシル・B・デミル監督)のような大ヒット作を除けばスターとしての商品価値は落ちて行った。デミルの最後の超大作『十戒』(56年)ではジョシュア役を振られたが、主役でないのはともかく役自体が小さくギャラも安かったので断った。結局、その役はジョン・デレクが演じた。51年には長年連れ添ったパトリシア・ナイトと別れ、同年には女優のジーン・ウォーレスと再婚した。

 ワイルドは主演にこだわりをみせるが、やはりフェンシングの腕頼りで『剣豪ダルタニアン』(52年・ルイス・アレン監督)、『渓谷の騎士』(54年・アーサー・ルービン監督)、『勇者カイヤム』(57年・ウィリアム・ディターレ監督)といったB級剣戟スターに落ち着いた。『征服者』(52年・ルー・ランダース監督)は西部劇でありながらワイルドの希望なのか、クライマックスはフェンシングで対決するという異色作であった。初のイタリア映画『コンスタンチン大帝』(61年・リオネロ・デ・フェリス監督)では、タイトルロールのコンスタンチン大帝を演じて達者な剣捌きを見せた。フィルムノワールでは暗黒街撲滅もので、フイリップ・ヨーダン脚本、ジョセフ・H・ルイス監督の傑作『暴力団ビッグ・コンボ)』(55年)におけるタフガイ刑事役の熱演が光った。ドン・シーゲル監督のB級アクション『グランド・キャニオンの対決』(59年)では、脇のミッキー・ショーネシージャック・イーラムの小芝居を主役らしく受け切る懐の深さもみせた。TVM『ショック!生きていた怪獣ガ―ゴイルズ』(72年・B・W・ノートン監督)では、伝説の鳥人獣ガ―ゴイルを追う考古学者を還暦にして熱演した。本作はTVMながら無名時代のスタン・ウィンストンが特殊造形などに参加しているマニアにとってはカルトな一作である。

 

第四章 監督作の先見性

 

 スターとしての人気が頭打ちとなって行った50年には、監督業にも意欲を示した。自らの製作プロダクション“セオドラ・プロダクション”を妻のジーン・ウォーレスと共に設立した。その第一作は夫婦が主演した『大雪原の決闘』(55年)であった。雪山の交通が絶たれた山小屋に避難した子連れ家族の元へ、銀行強盗の三人組が押し入ってくる、というサスペンスもの。後年、『アラバマ物語』(62年・ロバート・マリガン監督)と『テンダー・マーシー』(82・ブルース・ベレスフォード監督)でアカデミー脚色賞と脚本賞を受賞した、劇作家のホートン・フートの映画脚本第一作なので、構成がしっかりしており主演を兼ねたワイルドの演出ぶりも手堅く十分及第点を与えられる。第二作もセオドラ・プロ製作の『地球で一番早い男』(57年)で、製作・脚本・監督・主演の四役を兼ねた。アメリカにおけるスピードレース最高峰と言われる“悪魔のヘアピン”と異名をとる難関コースを109周するレース映画。カラー、ヴィスタヴィジョンの画面に炸裂する迫力のレースシーンは、後年のシネラマ、レース映画『グラン・プリ』(66年・ジョン・フランケンハイマー監督)を彷彿させる。『マラカイボ』(58年)は、南米ヴェネズエラのマラカイボの海底油田の火災消火に命を賭ける男(ワイルド)を描いたスペクタクル・アクション。これも後年のジョン・ウェイン主演の油田消火もの『ヘルファイター』(68年・アンドリュー・V・マクラグレン監督)を想起させる。『剣豪ランスロット』(63年)は、ワイルドがアーサー王の円卓の騎士ランスロットを演じ、グイニヴァ妃にジーン・ウォーレスが扮した。得意の剣戟ものなので、安定した出来栄えを示した。

 ワイルドの監督作品の中では、一般的に一番高い評価を得ているのが『裸のジャングル』(66年)である。アフリカを舞台に原住民によって衣服・武器・食料などを全て奪われた男(ワイルド)が、持てる勇気と知恵と生命力の限りをつくして生き抜くサバイバル・アクションの傑作である。54歳のワイルドが薄絹のみで全編出ずっぱりの大熱演を見せてくれる。本作の内容はメル・ギブソン監督の『アポカリプト』(06年)が、リメイクと言っていいほどに酷似している。

 ジェファーソン・パスカル名義で脚本も担当した『ビーチレット戦記』(67年)はセオドラ・プロ製作による低予算戦争ものだが、色んな意味で先駆けとなる内容となっている。アメリカ軍の反撃が激化した南太平洋の島にマクドナルド大尉(ワイルド)が指揮する海兵隊が上陸して、杉山大佐(小山源喜)率いる日本軍と激戦を展開する。まず、スティーヴン・スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』(98年)に影響を与えたという浜辺での上陸シーンが素晴らしい。低予算のため上陸用舟艇が1隻しかなくエキストラも十分に雇えない状況ながら、軍の記録フィルムを巧みにインサートして数千人規模の大群に見せている。本作がアカデミー編集賞にノミネートされたのも、頷ける見事な編集プロの仕事である。また兵士の喉に銃弾で穴が開く血なまぐさい描写などは、当時のヘイズコード(自主倫理規制)をよくすり抜けたと思わせるが、独立プロ作品なのでうまくすり抜けたのであろうか。ヘイズコードは68年に正式に廃止されて、レイテイング・システムに移行するだが、『俺たちに明日はない』(67年・アーサー・ペン監督)のクライマックスの壮絶な銃弾乱舞シーンは、ヘイズコード廃止一年前ながら既に制度そのものが瓦解していたのかもしれない。本作が凄いのは、兵士たちの内面にまで入り込んでいることである。故郷の両親や恋人などの回想や幻想がフラッシュバックで時折インサートされる。これはテレンス・マリック監督の『シン・レッド・ライン』(98年)に先駆けた構成と言えよう。因みにベストセラーとなったジェームズ・ジョーンズの小説は『大突撃』(64年・アンドリュー・マートン監督)で先に映画化されているが、こちらは至ってストレートな戦争映画となっている。本作が更に凄いのは、内面描写が米兵だけでなく日本兵までが描かれていることである。日米両兵士の内面が描かれるのは、『トラ!トラ!トラ!』(70年・リチャード・フライシャー舛田利雄深作欣二監督)、クリント・イーストウッド監督の『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』(以上06年)に先駆けている。これらの先見性を含め、本作が映画史の中でさして評価されていないのには、怒りさえ覚える。

 『最後の脱出』(70年)は、ジョン・クリストファーのSF小説の映画化で、環境汚染で穀物がダメになり、世界中に蔓延しつつある飢饉から逃れるためにロンドンを脱出する家族を描く。近未来の荒廃した地球と人々の描写がやけに生々しく迫って来る意欲作。ワイルドは出演はしていないが、ラジオの声で参加している。『シャーク・トレジャー』はスティーヴン・スピルバーグ監督の大ヒット作『ジョーズ』と同じ75年に製作されているので、単純に模倣とは言い切れない。カリブ海沖に沈んでいるらしい中世スペイン船の財宝をトレジャー・ハンター(ワイルド、ヤフェット・コットーなど)が引き上げようするが、その海域にはホオジロザメがうようよしていた。『ジョーズ』同様、人喰いザメとの攻防戦になるのだが、前半でサメを退治して財宝を手に入れてしまう。後半は脱獄囚たちとトレジャー・ハンターたちの対決という、ありきたりの展開となってしまうので尻つぼみとなる残念な作品。本作は『ジョーズ』のようにヒットしなかったようで、ワイルドの監督作品も本作が最後となってしまった。

 スター俳優が片手間ではなく本格的に監督業をするのは、クリント・イーストウッドロバート・レッドフォードケヴィン・コスナーメル・ギブソンらの先達と言えるのではないだろうか。作品数は決して多くないものの、その先駆性と独創性は特質すべきものがあり、中でも『裸のジャングル』と『ビーチレッド戦記』は、映画史的にも重要な作品と言えよう。

 99年、77歳の誕生日の3日後に白血病で死去した。『裸のジャングル』の続篇を準備していたというから、その創作意欲は最後まで衰えなかったのであろう。

 最後に彼の自伝からの引用を。「私はずっと前に、成功を運に頼ることは出来ないことに気付きました。私は自分の能力と経験を増やして、一生懸命、一生懸命に働きました。私の目標は、人生において何か価値のあることを達成し、自尊心と誠実さを持ってそれを実行することでした。」

 

(フィルモグラフィ)

リズムパーティ(フレッド・ウォーラー監督*短篇/デビュー作)(36年)、エクスクルーシブ(アレクサンダー・ホール監督*ノンクレジット)(37年)、赤い髪の女(カーティス・バーンハート監督)(40年)、ハイ・シェラ(ラオール・ウォルシュ監督)、ノックアウト(ウィリアム・クレメンス監督)、朝食にキッス(ルイス・セイラ―監督)、パーフェクト・スノッブ(レイ・マッカレイ監督)(以上41年)、マニラ・コーリング(ハーバート・I・リーズ監督)、人生の始まる夜(アーヴィング・ピチュエル監督)(以上42年)、氷上の花(ジョン・ブラーム監督)(43年)、楽聖ショパンチャールズ・ヴィダー監督)、千一夜物語・魔法のランプ(アルフレッド・E・グリーン監督)、哀愁の湖ジョン・M・スタール監督)(以上45年)、戦うロビン・フッド(ジョージ・シャーマン、ヘンリー・レヴィン監督)、100周年の夏(オットー・プレミンジャー監督)(以上46年)、ホームストレッチ(H・ブルース・ハンバーストーン監督)、スターへの階段(ジャック・リーガー監督)、永遠のアムバア(オットー・プレミンジャー監督)、あなたじゃなけりゃならない(ドン・ハートマン監督)(以上47年)、ジェリコの壁(ジョン・M・スタール監督)、深夜の歌声(ジーン・ネグレスコ監督)(以上48年)、ショックプルーフダグラス・サーク監督)、スイス・ツアー(レオポルト・リンデバーグ監督)(以上49年)、西部の二国旗(ロバート・ワイズ監督)(50年)、地上最大のショウ(セシル・B・デミル監督)、剣豪ダルタニアン(ルイス・アレン監督)、征服者(ルー・ランダース監督)、語らざる男(ルイス・セイラ―監督)(以上52年)、ゴールデン・コンドルの秘宝(デルマー・ディヴィス監督)、ブロードウェイのメインストリート(ティ・ガーネット監督*本人役ゲスト)、サーディア(アルバート・リューイン監督)(以上53年)、渓谷の騎士(アーサー・ルービン監督)、ニューヨークの女達(ジーン・ネグレスコ監督)、怒りの刃(アラン・ドワン監督)、暴力団ビッグ・コンボ)(ジョセフ・H・ルイス監督)(以上54年)、熱い血(ニコラス・レイ監督)、豹の爪(ジョージ・マーシャル監督)(以上56年)、勇者カイヤム(ウィリアム・ディターレ監督)(57年)、グランド・キャニオンの対決(ドン・シーゲル監督)(59年)、コンスタンチン大帝(リオネロ・デ・フェリス監督)(61年)、ショック!生きていた怪獣ガーゴイルズ(B・W・L・ノートン監督*TVM)(72年)、バトル・オブ・ザ・バイキング(チャールズ・B・ピアース監督)(78年)、四銃士ケン・アナキン監督)(79年)、肉体と弾丸(カーロス・トバリナ監督*遺作)(85年)

 

(監督作品)

大雪原の死闘(兼・製作・出演*デビュー作)(55年)、地球で一番早い男(兼・製作・脚本・出演)(57年)、マラカイボ(兼・製作・出演)(58年)、剣豪ランスロット(兼・製作・脚本・出演)(63年)、裸のジャングル(兼・製作・出演)(66年)、ビーチレッド戦記(兼・製作・脚本・出演)(67年)、最後の脱出(兼・製作・脚本・声の出演)(70年)、シャーク・トレジャー(兼・製作・脚本・出演*遺作)(75年)

新映画原理主義・第8回「GPOとイーリングスタジオの俊英~ハリー・ワット」

 

第一章 英国ドキュメンタリー運動とアヴァンギャルド映画運動

 

 1930年代から戦争を挟んだ1940年代には、英国ドキュメンタリー運動がジワジワと映画界に浸透していた。この運動の嚆矢は28年に設立された帝国通商(EMB)に、ジョン・グリアスンが映画部を開設したことから始まったと言われている。グリアスンがEMBに映画部を作ったのは偶然ではなく、20年代にヨーロッパに起こったアヴァンギャルド映画(前衛映画もしくはシュールレアリズム映画)運動に起因している。『リズム21』(23年・ハンス・リヒター監督)、『理性への回帰』(23年・マン・レイ監督)、『幕間』(24年・ルネ・クレール監督)、『アネミック・シネマ』(26年・マルセル・デュシャン監督)、『伯林 大都会交響曲』(27年・ワルター・ルットマン監督)、『アンダルシアの犬』(28年・ルイス・ブニュエルサルバドール・ダリ監督)、『カメラを持った男』(29年・ジガ・ベルトフ監督)など大量のアヴァンギャルド映画が製作された。アヴァンギャルド映画運動は、アヴァンギャルド芸術運動とも同調しヨーロッパを席捲していった。

 グリアスンは映画の可能性に深く関心を持ち、アヴァンギャルド運動の熱量をまだ未開発であったドキュメンタリー映画に注ごうと試みた。アヴァンギャルド映画の主観性とドキュメンタリー映画の客観性は、相反するテーマと思われたが、ドキュメンタリー映画の深度が増すに従って、次第にお互いの長所が組み込まれて再構成されて行くことになる。グリアスンは『流網船』(29年)、『産業英国』(31年)を自ら監督して、フッテージを創造的に再編集するという方法論を実践した。33年、運動の拠点は中央郵便局(GPO)に移り、『セイロンの歌』(34年・バジル・ライト監督)、『夜行郵便』(36年・バジル・ライト&ハリー・ワット監督)、『火の手はあがった』(43年・ハンフリー・ジェニングス監督)、『英国に聞け』(42年・ハンフリー・ジェニングス&スチュアート・マカリスター監督)、『ティモシ―のための日記』(44-45年・ハンフリー・ジェニングス監督)などの傑作を送り出した。

 余談になるが、『ティモシ―~』は、30年以上前にシネマトグラフの上映会で『田舎司祭の日記』(50年・ロベール・ブレッソン監督)と日記映画二本立で上映し大盛況であった。ジェニングスの映画を初めて観賞して、彼を知らなかった己の無知ぶりに反省を促した。因みに現在普通に使われている“ドキュメンタリー”という言葉は、グリアスンが英国領サモア諸島の原住民の暮らしを撮影したロバート・フラハティ監督の『モアナ』(26年)に対して使った造語と言われている。

 

第二章 ハリー・ワットのドキュメンタリー修行

 

 ハリー・ワットは1906年10月18日、スコットランドエジンバラ生まれ。父親はスコットランド自由党議員のハリー・ワット。エジンバラ大学で学び、商船に入隊し、多くの産業関係の仕事に就く。そして31年にEMB映画部に入社する。グリアスンの招きで32年に渡英したロバート・フラハティが、アイルランドアラン諸島の自然と人間を1年半かけて撮影した傑作『アラン』(34年)では、ラッシュを観るため島に作られた現像所で助手を務めた。ドキュメンタリー映画の巨匠の元での助手仕事は、ワットにとってその後の自身の仕事への大いなる刺激となった。仕事の拠点がGPOに移った34年に短篇『6.30コレクション』で監督デビューを果たす。バジル・ライトと共同監督した36年の『夜行郵便』はグリアスンの方法論を忠実に実践した傑作で、本作に依ってワットは有望なドキュメンタリー監督として注目されることとなった。同年、アメリカのニュース映画シリーズ『マーチ・オブ・タイム』のロンドン部門の監督に抜擢され、多くのニュース映画を撮る。その後は劇映画的要素を入れた『ビル・ブルーイットの救出』(37年)や『ロンドンは耐えられる!』(40年)、『今夜のターゲット』(41年)など多くの優れた短篇ドキュメンタリーを監督した。特にナチスドイツの爆撃任務に参加したウエリントン爆撃機の乗務員を主人公にした『今夜のターゲット』は、巧みに劇映画的演出も盛り込んで緊張感を持続させた傑作で、42年度のアカデミー賞で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した。

 

第三章 マイケル・バルコンとの出逢い

 

 マイケル・バルコン率いるイーリング・スタジオに招かれて監督した『砂漠の9人』(43年)は、初の劇映画にして初の長編であった。ジャック・ランバート、ゴードン・ジャクソンらの出演。第二次大戦アフリカ戦線のサハラ砂漠。英国陸軍のパトロール部隊はイタリア軍の砲撃で車が大破し小屋に立て籠もる。生き残った兵は9人で弾薬も水も乏しい。設定が同年のアメリカ映画『サハラ戦車隊』(ゾルタン・コルダ監督)に似ているのは偶然なのだろうか。マイケル・バルコンは20年代初頭よりプロデューサーとしてのキャリアをスタートし、23年にはヴィクター・サビルと共同でゲインズボロ―・ピクチャーズを設立するが、ゴーモン映画社に吸収合併される。この時代の34年にバルコンはフラハティの『アラン』をプロデュースしており、ドキュメンタリー映画と劇映画の融合の可能性を模索していたと思われる。英国MGM映画の責任者を経て、38年にイーリング・スタジオの所長に就任する。02年設立の同社は慢性的不振に陥っており、剛腕で鳴らしたバルコンへの期待は大きかった。バルコンは、予てから考えていた低予算で最大の効率を上げられるドキュメンタリー・タッチの劇映画を、イーリングの売りにしようと動き出した。優れたドクメンタリー監督として売り出し中のハリー・ワットをスカウトしたのも、バルコンの大いなる読みであった。

 トミー・トリンダ―主演のコメディ『フィドル奏者三人組』(44年)は不発だったが、次のオーストラリアロケを敢行した『オヴァランダース』(46年)は大成功を収めた。1942年のオーストラリアが舞台。シンガポールより勢いに乗り南下してくる日本軍より、主要食糧となる牛を守るため安全な南部へ千頭の牛を移動させるという、2500キロのオーストラリア大陸横断の悪戦苦闘を描いた本作は大ヒットした。イーリングがオーストラリアで製作を開始する切っ掛けとなり、主人公を演じたチップス・ラファティは人気スターとなった。

 映画の大ヒットに気を良くしたバルコンは、次の『ユーレカの砦』(48年)もオーストラリアで撮影しワットとチップス・ラファティに再びコンビを組ませた。1853年のオーストラリアのある州で金が採掘されたことから、全世界から一攫千金を夢見る採金師たちが集まって来た。だが争いも多く現地警察の横暴な対応に採金師たちの怒りが爆発。ユーレカの丘に砦を築いて立て籠もる。国家は軍隊を派遣し砦を攻撃するが・・・。『オヴァランダース』のような爽快さに欠けたためか映画は失敗し、バルコンはワットにオーストラリアロケをやめさせて、映画の題材を求めて東アフリカ行きを命じる。英国領東アフリカを舞台にした『禿鷹は飛ばず』(51年)はテクニカラーによる色彩映画。野生動物の濫獲に悩む主人公アンソニー・スティールが密猟者と対決する。アフリカの野生動物の生態が美しい色彩で紹介される珍しさも手伝って映画は大ヒット。続編の『秘境ザンジバー』(54年)もアフリカを舞台にした色彩映画だったが、二番煎じ感は拭えずコケてしまう。55年に業績不振からイーリング・スタジオがBBCに身売りしたためマイケル・バルコンはイーリング・スタジオを退職した。ワットは大きな後ろ盾を失ってしまった。

 

第四章 その後のハリー・ワット

 

 55年から話のあったスペインのグラナダテレビでプロデューサーとして働くが、やはり映画現場への夢断ち難く1年も絶たないうちに退職してしまう。古巣イーリング・スタジオに再び売り込み(BBCに身売りした後も名前は残っていた)、長年眠っていたシナリオを掘り起こした。それがオーストリアを舞台にした『全市爆砕!』(59年)であった。シドニー刑務所をアルド・レイたち囚人数人が脱獄し、ピンチカット島にある古い要塞に住民ヘザー・シアーズたちを人質にして立て籠もる。島に残る砲台から弾薬船を砲撃してシドニー市を壊滅させようと目論むが・・・。久々のオーストラリアロケによる骨太のアクションものだったが、興行的には失敗しワットの映画監督としてのキャリアにも楔が打ち込まれた格好となった。

 その後はリチャード・コンテ、ジャック・ホーキンスら出演のTVシリーズを手掛けた。遺作はデンマークで撮ったファミリーもの『白い種牝馬』(61年)であった。74年には回想録「カメラを見るな」も上梓した。

 ジョン・グリアスン、マイケル・バルコンといった英国映画界のビッグネームの元で、しっかりした作品作りをしてきたハリー・ワットの功績は、もっと高く評価されて然るべきであろう。

 

(フィルモグラフィ)

6.30コレクション(デビュー作)(34年)、夜行郵便(バジル・ライト共同)(36年)、ビル・ブルーイットの救出、ビッグ・マネー(以上37年)、ファースト・デイ(ハンフリー・ジェニングス、パット・ジャクソン共同)、ロンドンは耐えられる!、炎の下のクリスマス、992飛行隊、英国湾、フロント・ライン(以上40年)、今夜のターゲット(41年)、21マイル(42年)(*以上全て短篇)、砂漠の9人(43年)、フィドル奏者三人組(44年)、オヴァランダース、ユーレカの砦(以上48年)、禿鷹は飛ばず(51年)、秘境ザンジバー、ピープル・ライク・マリア(短篇)(以上54年)、全市爆砕!(59年)、不思議な犬バラ(短篇)、白い種牝馬(*遺作)(以上61年)

新映画原理主義・第7回「カリブ海のサイクロン~マリア・モンテス」

 

第一章 カリブ海からハリウッドへ

 

 マリア・モンテス、本名マリア・アフリカ・ヴィダル・サント・シラスは、1912年6月6日、ドミニカ共和国バラホナ生まれ。余談ながらバラホナにある国際空港は後に“マリア・モンテス国際空港”と名付けられた。父親はスペイン人でサンドミンゴスのスペイン名誉副領事であった。カナリア諸島で教育を受けた後、15歳でアイルランドへ渡る。そこで舞台の魅力に取り付かれ舞台女優としてデヴューし、いくつかの舞台に上がった。32年、20歳の時に裕福なアイルランド人ウィリアム・G・マクフィーターズと結婚した。だが結婚生活は長く続かず39年に離婚してしまう。同年ひとりで渡米して、ニューヨークで170cmの長身を生かしてモデル活動を行う。ほどなく娯楽の王様であった映画女優の道を志し、40年にユニヴァーサルのスクリーン・テストに合格した。同年、ジョニー・マック・ブラウン主演、レイ・テイラー監督の『地金都市のボス』で、脇役ながらクレジット4番目の大役を与えられて女優デビューを果たす。エキゾチックなルックスとちょっとセクシーな言葉のアクセントは、大いなる宣伝ポイントとなった。

 このエキゾチック系の女優ジャンルは、無声時代のセダ・バラに始まり、MGM美術監督の大御所セドリック・ギボンズ夫人に収まったドロレス・デル・リオ、そのライバルでジョニー・ワイズミュラーと結婚し、荒々しい性格から“メキシコの山猫”の異名を取ったルぺ・ヴェレス、パラマウントの『珍道中』シリーズでビング・クロスビーボブ・ホープとトリオを組んだドロシー・ラムーアと枚挙にいとまがない。

 

第二章 善隣外交政策

 

 時代は“ニューデール政策”で世界恐慌からアメリカ経済を救った第32代大統領フランクリン・D・ルーズベルトの治世であった。39年のアドルフ・ヒットラー総統率いるナチス・ドイツの電撃作戦によるヨーロッパ大戦の開戦により、ウィンストン・チャーチル首相のイギリス寄りの立場を取っていたルーズベルトは慎重な姿勢を崩さなかった。というのもヨーロッパでの開戦により、ヨーロッパ各国との経済的交流が滞ることとなり、ようやく回復した経済に大打撃を与え兼ねなかった。その代替として経済的発展の著しい南米諸国との絆を強めようとした。それは“善隣外交政策”と言われ強力な経済的な支えとなった。経済面ではハリウッドの映画産業も大きな役割を果たすことになった。40年以降、ラテンアメリカ諸国の女優や男優を多く起用した映画が多数製作されることになった。ルーズベルトの肝いりに対して、最初に名乗りを挙げたのは、20世紀フォックスの代表ダリル・F・ザナックであった。ザナックは頭に巨大なバナナの帽子を被って奇抜な歌と踊りを披露するブラジルの歌姫カルメンミランダを起用し、『バナナ・ムーヴィー』シリーズを連作して興行的ヒットを飛ばした。ラテンアメリカに対するステレオタイプのイメージは、このシリーズでほぼ確立したものと思われる。

 

第三章 カリブ海のサイクロン 

 

 マリア・モンテスも、このラテン・アメリカ・ブームの波に乗ったエキゾチック路線で売り出すこととなり、ジョン・ホール、サブウ、ターハン・ベイが共演者としてピックアップされた。その主演第一作が42年の『アラビアン・ナイト』(ジョン・ロウリンズ監督)であった。有名な「アラビアン・ナイト」の物語からキャラクターを借りてハリウッド風に自由に脚色したもので、当時としては煽情的な衣装をまとって踊るシェラザード役のモンテスはテクニカラーの画面によく映えた。次作『ホワイト・サヴェージ』(43年・アーサー・ルービン監督)でもジョン・ホール、サブウと共演。『アリババと四十人の盗賊』(44年・アーサー・ルービン監督)ではアリババ(ジョン・ホール)の恋人役でセクシーな肢体を披露した。彼女の人気は沸騰し“カリブ海のサイクロン”や“テクニカラーの女王”の呼称がつけられ、ユニヴァーサルのドル箱となった。その後も『コブラ・ウーマン』(44年・ロバート・シオドマク監督)、『山猫ジブシ―』(44年・ロイ・ウィリアム・ニール監督)とエキゾチズム路線を突き進む。父親を暗殺されたマリア・モンテスのエジプトの女王が砂漠の盗賊ジョン・ホールの力をかりて復讐を果たす『スーダンの砦』(45年・ジョン・ロウリンズ監督)は、名コンビ、ジョン・ホールとの最後の共演作となった。『タンジールの踊子』(46年・ジョージ・ワグナー監督)は、タンジールを舞台にしたスパイ・メロドラマ。モンテスの戦後第一作だが、従来のエキゾチック路線もさすがに陰りが見えて来た。『風雲児』(47年)はマルセル・オフュルス監督の渡米第一作で、ダグラス・フェアバンクス・ジュニアがオヤジばりのチャンバラ活劇をみせ、モンテスは彩り役に甘んじている。結局、ロッド・キャメロン共演の『モントレイの海賊』(47年・アルフレッド・L・ワーカー監督)が、最後のユニヴァーサル作品となった。

 

第四章 突然の死去

 

 この後は、セシル・B・デミル監督の大作『サムソンとデリラ』(49年)のデリラ役に応募するも落選するなどハリウッドでの行き場を失い、43年に二度目の結婚をしたジャン=ピエール・オーモンの祖国フランスへ渡った。この間に二児を設け、その内の1人が、後に女優となるテイナ・オーモンであった。またジャン・コクトー監督の代表作『オルフェ』(50年)でマリア・カザレスが扮した王女役のオーデイションも受けたようである。

 夫オーモンとは鴛鴦夫婦で、『マルセイユの一夜』(48年・フランソワ・ヴィリエ監督)、『魅惑の魔女』(49年・グレッグ・C・ダラス監督)、『海賊の復讐』(51年・プリモ・セグリオ監督)といったオーモン主演作でも夫婦共演をしている。ローマで撮影された『海賊の復讐』の後、51年9月7日、入浴中に心臓発作を起こしてバスタブで溺死してしまう。39歳という若さであった。8月に撮影された『海賊の復讐』では、撮影中に結婚8周年の祝いをしたばかりであった。夫オーモンの悲しみは勿論だが、当時5歳だった後のテイナ・オーモンの悲しみはいかばかりだったであろうか・・・。

 正直なところを言うならば、演技、踊り、歌に特出したわけでもなかったモンテスが、そのエキゾチックな美貌だけで短期間ながら人気スターに成り得たのは、前記したようにルーズベルトの”善隣外交政策”によるハリウッドのラテン・アメリカ諸国の大規模な取り込みがあったことは忘れてはならない。また少年の日、テレビ放映にて観た『アラビアン・ナイト』で、シェラザードに扮したマリア・モンテスのセクシーな踊りが、目に焼き付いて離れないのも紛れもない事実なのである。

 

(フィルモグラフィ)

地金都市のボス(*デヴュー作)、透明女性(以上40年)、幸運な悪魔、リオの夜、砂漠のライダー、ムーンライト・イン・ハワイ、タヒチの西、ボンベイ・クリッパー(以上41年)、マリー・ロジェの秘密、アラビアン・ナイト(以上42年)、ホワイト・サヴェージ(43年)、アリババと四十人の盗賊コブラ・ウーマン、フォロー・ザ・ボーイ、山猫ジプシー、バワリ―からブロードウェイへ(以上44年)、スーダンの砦(45年)、タンジールの踊子(46年)、風雲児、モントレイの海賊(以上47年)、マルセイユの一夜(48年)、魅惑の魔女、死の肖像(以上49年)、ヴェニスの泥棒(50年)、愛と血、ナポリを覆う影、海賊の復讐(*遺作)(以上51年)

(*未公開作は英語、仏語、伊語ともに、ほぼ直訳である)

新映画原理主義・第6回「サミュエル・ブロンストンとブリジッド・バズレン」

 

第1章 苦闘するサミュエル・ブロンストン

 

 サミュエル・ブロンストンは、1908年3月26日ロシア帝国(現在のモルドバ)のベッサラビアキシニョフ生まれ。ウラジーミル・レーニンと対立し国外に亡命して、40年パリで暗殺された社会主義革命家レオン(レフ)・トロッキーの甥。フランスのソルボンヌ大学で学び、卒業後はパリにあるMGMのフランス支部の営業部門に勤務した。本格的に映画製作に関わるべく37年にハリウッドへ渡り、苦闘の末の43年自らの製作会社“サミュエル・ブロンストン・プロダクション”を設立した。最初の製作作品は、同年のアルフレッド・サンテス監督、マイケル・オシュア、スーザン・ヘイワード主演の冒険活劇『ジャック・ロンドン』で、UA(ユナイテッド・アーテイスツ)の配給でまずまずの興行成績を収めた。以降、プロダクションはUAとコラボレーションしていくことになる。続いてシドニーサルコウ監督、リンダ・ダーネルエドガー・ブキャナン主演のフイルムノワール『黒い霧の果て』(43年)を製作し一応の成果を挙げた。勢いに乗ったブロンストンは、ヨーロッパ戦線での一小隊の実話を映画化したルイス・マイルストン監督、ダナ・アンドリュースリチャード・コンテ主演の『激戦地』(45年)の製作に着手するが、資金元であるユナイトが同時期に製作していたジャーナリスト、アーニー・パイルの従軍日記を映画化したウィリアム・A・ウェルマン監督、バージェス・メレディスロバート・ミッチャム主演の大作『G・Iジョー』(45年)との競合を嫌い資金提供を中止した。だがブロンストンは契約をたてに訴訟を起こし、おおむねで勝利して映画を何とか無事に完成させた。だが資金元に訴訟を起こしたことから、ユナイトとの関係もこじれてしまい自身のプロダクションによる映画製作も頓挫してしまう。

 

第2章 アメリカのブリジッド・バルドー

 

 ブリジット・バズレンは1944年6月9日ウィスコン州フォン・デュ・ラで誕生。父は有名小売りチェーンの幹部のアーサー・バズレン、母はシカゴ新聞のコラムニストのマギー・デイリー。7歳の時、自宅前でスクールバスを待っている所をNBCの幹部に見初められて、小さな役でテレビデヴューする。WGN―TVの「青い妖精」(58~59年)では、14歳にして初主演を果たす。この番組はカラーで撮影されたWGN―TVチャンネル9初期の子供向け番組である。青いマントを着てダイヤモンドのティアラを頭につけ、銀の杖を握りしめたバズレンが、ワイヤーで吊り下げられて小さなテレビステージを飛び回り、口パクで「私は青い妖精です。あなたの願いを叶えます。あなたの夢をすべて叶えます。」と視聴者に語り掛けた。番組は好評で新しいテレビ番組にも次々と出演し、その美少女ぶりから「次のエリザベス・テイラー」ともてはやされた。それに目をつけたMGMがスカウトし61年、17歳の時にMGMと専属契約を結んだ。MGMとの契約期間中、バズレンはBBの頭文字から宣伝キャンペーンで「アメリカのブリジッド・バルドー」と宣伝された。映画初出演は、まだブレーク前の若きスティーヴ・マックィーンと共演したリチャード・ソープ監督の『ガールハント』(61年)であった。これはロレンツツォ・センプル・ジュニアのヒット舞台劇「ゴールデン・フリーシング」の映画化で、バズレンは雷提督ディーン・ジャガーの娘ジュリー役。髪をアップにして、その美貌があからさまになった彼女は、バルドーというよりエリザベス・テイラー似で、このあたりも宣伝部が売り出し方をミステイクしてしまったのではないだろうか。だが彼女の自然な演技とスター性は十分うかがい知ることが出来た。

 

第3章 70mm大作の連発

 

 ユナイトとの関係悪化もありハリウッドで従来通りの製作が難しくなったブロンストンは、ユナイトとの訴訟裁判で凍結された資金が多額であることを知り、これを利用しない手はないと考え実行に移した。プロデューサーとしての手腕を大いに発揮したブロンストンは、巨額の資金及びスポンサーを獲得し、人件費の安価なスペインに製作の拠点を移すことにした。まず手始めに手掛けたのは、ジョン・ファロウ監督、ロバート・スタック主演の『大海戦史』(59年)であった。これはアメリカ海軍の創設者と言われるジョン・ポール・ジョーンズの生涯を描いた海洋ドラマで、海戦シーンの迫力は一部で話題になった。キャサリン大帝で出演のべティ・デイビスも作品に重みを与えた。

 ブロンストンは夢であった壮大な規模の大作を実現するためスペインのマドリード郊外に巨大なスタジオを建設した。そうした下準備により製作された最初の70mm、165分の大作が、キリストの生涯を描いたニコラス・レイ監督、ジェフリー・ハンター主演の『キング・オブ・キングス』(61年)であった。本作はハリウッドにおいてキリストの顔を正面から取り上げた最初の作品でもあった。キリスト役はキース・ミッチェル、クリストファー・プラマーピーター・カッシング、マックス・フォン・シド―(*後年『偉大な生涯の物語』(65年・ジョージ・ステイ―ヴンス、デヴィッド・リーンジーン・ネグレスコ監督)でキリストを演じた)らが候補に挙がったが、瞳の説得力が買われてジェフリー・ハンターが抜擢された。ハリウッドの異端児であったニコラス・レイはキリスト物語を宗教面だけではなく人間ドラマとして掘り下げて、非常に陰影の深い作品に仕上げた。MGMはサロメ役に新人ブリジッド・バズレンを猛プッシュして見事に役を獲得した。当時17歳のバズレンは妖艶なサロメを演じ切れるか不安視されたが、見事に不安を一掃しニュータイプサロメ像を印づけた。祝宴においてヘロデ王の眼前で肉体の歓喜と欲情を表現するかのように踊る姿は本作のハイライトと言ってもいい素晴らしい出来栄えであった。ある意味、3本の映画出演しかないバズレンにとって、本作がキャリアのピークと言っても過言ではなかった。映画は大ヒットし、ブロンストンは次への大作へ取り掛かった。

 アンソニー・マン監督、チャールトン・ヘストンソフィア・ローレン主演の『エル・シド』(61年)は、今までで最大の製作費を投入した70mm、184分の超大作。11世紀後半のカスティーリャ国の英雄と謳われた“エル・シド”ことロドリーゴ・ディアス・デ・ビバールの生涯を描く。ベラ・ユサフ(ハーバート・ロム)率いるムーア人の侵略に弱腰の国王に代わり孤軍奮闘するエル・シド。最後の決戦たる海岸におけるバレンシアの戦いは、CGのない時代だけに膨大な数のエキストラが投入され今では実現不可能な大スペクタクルシーンとなっている。当時はフランコ政権だったが、映画好きのフランコをうまく懐柔しスペイン軍をエキストラとして大量投入出来たのも、ブロンストンの面目躍如といったところだろう。映画は大ヒットし、アカデミー賞は各賞ノミネートだけに終わったが、ブロンストンはゴールデングローブの優秀賞を受賞した。

 ニコラス・レイ監督、チャールトン・ヘストンエヴァ・ガードナー、デヴィッド・二―ヴン主演の『北京の55日』(63年)も70mm、160分の大作。1900年の清朝時代の中国北京に反乱軍たる義和団が押し寄せる。11か国が居住する地区が包囲されて籠城を強いられて55日間戦った実話の映画化。日本軍の菊五郎中佐には若き伊丹十三(*伊丹一三名義)が参加しているが出番はわずかであった。これもフランコ政権の協力により、スペイン軍がエキストラとしてスペクタクルシーンを盛り上げた。戦闘シーンを演出する第二班監督として『ベン・ハー』(59年・ウィリアム・ワイラー監督)や『史上最大の作戦』(62年・アンドリュー・マートンケン・アナキン、ベルンハルト・ヴィッキ監督)の名スペクタクルシーンの演出で知られる、アンドリュー・マートンが起用されている。本映画は中国が舞台ということもあり、興行的には思ったほどヒットせず、ブロンストンの製作姿勢にも少しずつ暗い影を落としつつあった。

 

第4章 その後のブリジッド・バズレン

 

 『キング・オブ・キングス』のサロメ役は好評だったものの、大作出演の後だけに、なまじの作品に出演することは避けられた。次に出演したのは、シネラマ、165分の超大作の『西部開拓史』(62年)であった。ヘンリー・ハサウェイジョン・フォードジョージ・マーシャルという3人のベテラン監督で、ジョン・ウェインジェームズ・スチュワートヘンリー・フォンダリチャード・ウィドマークデビー・レイノルズ、キャロル・ベイカーなどオールスターキャスト。バズレンはヘンリー・ハサウェイ監督による第1話に登場。毛皮猟師のジェームズ・スチュワートを騙す河賊ウオルター・ブレナンの娘を演じた。大スターのジミー相手にも物おじしない演技を見せたバズレンは、オールスターキャストの中で爪痕を残すことが出来たと思うが、MGMとの契約切れも重なりこれが最後の映画出演となってしまった。

 その後はテレビを中心に出演を続けたが、70年代には早くも引退してしまった。やがてガンに侵されて、89年5月25日還らぬ人となった。まだ45歳の若さだった。ブロンストンの大作主義がまだ続いていれば彼女の再起用の可能性もあっただけに惜しまれる女優であった。

 

第5章 大作主義の終焉

 

 アンソニー・マン監督、ソフィア・ローレン、ステイーヴン・ボイド、アレック・ギネス主演の『ローマ帝国の滅亡』(64年)は70mm、194分の大作。後年のアカデミー賞作品『グラディエーター』(00年・リドリー・スコット監督)と同じ歴史背景を扱っている。今までの大作は男性が主役であったが、今回はソフィア・ローレン演じるアウレリウス帝の娘ルシアが主役で、売りのスペクタクルシーンは抑え気味で展開のテンポも悪い。そのせいもあってか興行的は大コケしてしまう。さらに映画スタジオ建設費の負担も重なり、ブロンストンは財政難に陥り、64年には全ての事業活動を停止せざるえなくなる。債権者ピエール・S・デュポンとの間に訴訟合戦が繰り広げられ、64年6月には破産宣告を受けてしまう。さらに、ブロンストンがジュネーヴに開設していた個人口座に対して、アメリカ連邦警察が偽証罪で訴追し、裁判で有罪判決を受ける。ブロンストンはこれを不服として最高裁判所に持ち込み長い裁判の結果、73年に有罪判決を覆した。だが破産と刑事訴追により、彼の映画キャリアは壊滅的な打撃を受けてしまった。

 破産宣告の直前に、ヘンリー・ハサウェイ監督、ジョン・ウェインリタ・ヘイワース主演の70mm、135分の最後の大作『サーカスの世界』(64年)を完成させていた。西部劇スタイルのサーカスの人間模様を描き、サーカステントの火災シーンがスペクタクルな見せ場となっていたが、従来の大作よりもスケールダウンの感は逃れなかった。デュークと初共演のリタ・ヘイワースアルツハイマーの初期兆候があり、遅刻や台詞覚えの悪さ、酒に酔っての暴言などを露呈し、デュークを痛く失望させた。興行的にも芳しくなくブロンストンの苦境に追い打ちをかけることになった。

 ブロンストンはその後も細々ながら製作を続けるが、アラン・コルノー監督、ジェラルド・ドパルデュー、カトリーヌ・ドヌーヴ主演のフランス映画『フォート・サガン』(84年)が最後の華道となった。映画斜陽期に差し掛かる時期に、大作主義を頑なに貫いた姿勢は潔く、映画界における一代の漢と言っていい存在であった。

 

(フィルモグラフィ*特筆以外は全て製作)

ジャック・ロンドン(アルフレッド・サンテス監督*デビュー作)、黒い霧の果て(シドニーサルコウ監督)(以上43年)、激戦地(45年・ルイス・マイルストン監督)、大海戦史(59年・ジョン・ファロウ監督)、キング・オブ・キングスニコラス・レイ監督)、エル・シドアンソニー・マン監督)(以上61年)、堕落者の谷(アンドリュー・マートン監督*短篇)、北京の55日(以上63年)、ローマ帝国の滅亡アンソニー・マン監督)、サーカスの世界(ヘンリー・ハサウェイ監督)(以上64年)、野蛮なパンパス(65年・ヒューゴ・フレゴネーズ監督)、コッペリウス博士(66年・テッド・ニュージェント監督)、ブリカム(77年・トム・マコ―ワン監督)、ドクターCのミステリー・ハウス(79年・テッド・ニーランド監督)、フォート・サガン(84年・アラン・コルノー監督*遺作)