新映画原理主義・第十回「時代を通じての妖術~ ベンヤミン・クリステンセン

 

第一章 役者としての出発 

 

  ベンヤミン・クリステンセンは、1879年9月28日、デンマークのヴィボルグで12人兄弟の末っ子として生まれた。彼は当初医学を学んでいたが、演技に興味を持ち1901年にコペンハーゲンのデット・コンゲリーゲ劇場(デンマーク王立劇場)で勉強を始めた。クリステンセンのプロ俳優としてのキャリアは、07年に港湾都市オークスにあるオーフス劇場で始まったと言われているが、一時ワインのセールスマンをして生計を立てていたという話もあり、それまでの経歴には不明な点も多い。オーフス劇場ではオペラ歌手としてデビューも果たしたが、極度のステージ恐怖症で観客の前で歌うことが出来なくなったという。しかしながら同劇場の専属舞台監督となり、オペラのプロデュースもしている。

 11年にはダンクス・ビオグラフ社の『運命の帯』(スペン・リンドム監督)に俳優として初出演して、始めて映画界との関りを持つことになった。続いて『舞台の子供たち』(13年・ビョルン・ビョルンソン監督)に出演し、『小さなクラウスと大きなクラウス』(13年・エリト・レウマート監督)では、主役である大きなクラウス役で主演を果たす。第七芸術たる映画産業に俄然興味を抱いたクリステンセンは、ヘルボルグに本拠を置き初出演した『運命の帯』の制作会社であるダンスク・ビオグラフ社の経営権を引き継いだこともあり、14年、『密書』で監督デビューを果たすことになる。

 

第二章 ドライエルとクリステンセン

 

 デンマークの世界的巨匠と言えば誰もが、『裁かるゝジャンヌ』(28年)『吸血鬼』(31年)『怒りの日』(43年)『奇跡』(55年)『ゲアトルード』(64年)など映画史に残る作品で知られるカール・テオドール・ドライエルを思い浮かべるであろう。ドライエルの知名度が先行し過ぎているために彼の方がクリステンセンより先輩と思われがちなのだが、実際は1889年生まれのドライエルは1879年生まれのクリステンセンより10歳も年下なのである。キャリア的にも19年に『裁判長』で監督デビューしたドライエルに比べ、クリステンセンは14年に『密書』で監督デビューを果たしており、映画キャリアでも先輩なのである。監督になる前はジャーナリストをしていたドライエルが、国内でそれなりに話題となったクリステンセンの『密書』と『復讐の夜』を観ていないとは考えにくく、当時からそれなりの関係性を築いていたと思われる。   

 その証拠にドライエルとクリステンセンはドイツに招かれ監督をすることになった際。ドライエルは自作『ミカエル』(24年)において主役の画家クロード・ゾレ役にクリステンセンを起用しているのである。『ミカエル』はエリック・ポーマー製作、テア・フォン・ハルボウ脚本という極めてドイツ色の強い内容となっている。主役の画家クロード・ゾレはモデルの美青年ミカエル(ウォルター・スレザック)にホモセクショナルな感情を抱いているが当時の規制により、その辺は曖昧な描写となっている。ミカエルはゾレの感情にはどこ吹く風で、美しい公爵夫人(ノラ・グレゴール)と逢瀬を楽しんでいるのだが・・・。クリステンセンは苦悩の画家役を好演し、ドライエル作品の一翼を担った。因みに美青年ミカエルを演じるのは当時22歳のウォルター・スレザック(映画出演2作目)で、後年ハリウッド映画に出演し『救命艇』(44年・アルフレッド・ヒッチコック監督)、『船乗りシンバッドの冒険』(46年・リチャード・ウォーレス監督)などにおけるでっぷりと太った悪役の面影はない。歳月とは恐ろしいものだ。ドライエルはかつてクリステンセンについて「自分が何を望んでいるかを正確に理解し、妥協のない頑固さで目標を追求した音である。」と評している。

 

第三章 驚愕すべき『密書』『復讐の夜』『魔女』

 

 クリステンセンを論じる折に必ず代表作として挙げられるのは、デビュー作『密書』、『復讐の夜』(16年)、『魔女』(22年)の初期三作品である。この三作品は79年にフィルムセンターで開催された「デンマーク映画の史的展望」で観ることが出来た。『密書』は主人公の海軍中尉バン・ㇵウェン(クリステンセン)と妻アメリ―(カレン・カスパーセン)、そして敵スパイのスピネリ伯爵(へアケン・スピロ)の三人による海軍の軍事機密を巡るスパイメロドラマとでも言うような内容である。本作には特質すべき事柄がいくつかある。まずロケセットと見間違うような本物主義的なセットが素晴らしく、舞台の書割的セットがまだまだ主流を占めていた当時としては画期的と言えよう。さらに凄いのは室内シーンの正確なローキー撮影とパン・フォーカスを思わせる構図がうまく組み合わされているのである。例えば野外であれば偶然にパン・フォーカス風になることも考えられるが、ローキー撮影という正確に照明をセッティングしなければ不可能な室内撮影では、最初からパン・フォーカスを狙っているとしか思えないのである。また終盤のワンミニッツ・レスキューにおけるクロス・カッティングはデヴィッド・ウォーク・グリフィスを彷彿させる。そう、クリステンセンはまさに1875年生まれのグリフィスとほぼ同じ時代を生きた映画人なのである。グリフフィスは1巻物時代の08年『ドリーの冒険』で監督デビュー。13年の『ベッスリアの女王』で初めて四巻物を手掛けた。『国民の創生』(15年)や『イントレランス』(16年)は『密書』より後の作品なのである。『密書』はこのように当時としては革命的と考えられるアートディレクションキャメラワーク、カッティングに貫かれた作品として、映画史的にも重要な作品としてもっと評価されて然るべき重要作なのである。

 次の『復讐の夜』(16年)もクリステンセン率いるダンスク・ビオグラフ社の製作で、監督のみならず『密書』同様に脚本・主演も勤めたワンマン映画である。新年を祝う公爵家に冤罪ゆえに脱獄したストロング・ジョン(クリステンセン)が赤子を抱えて忍び込み、公爵の娘アン(カーン・サンペア)に助けを求める。だが家族の者の通報によって再び逮捕されたジョンは、アンの裏切りと勘違いして彼女に対する復讐を誓う・・・。本作でも『密書』で試みた室内でのローキー撮影と美術セットの本物主義をさらに推し進めており、早くもベンヤミン・クリステンセンの演出スタイルというものが確立している。これは監督・主演のデビュー作『市民ケーン』(41年)で、いきなり頂点を極めたオーソン・ウェルズを思わせるではないか。映画は成功を収め評判を聞いたアメリカ検閲省が有識者による試写会を開催し、映画の内容から刑務所の受刑者にも観せた。その流れでクリステンセンは、シンシン刑務所を訪れ「悪とは何か」について自問自答したという。これが次の『魔女』(22年)を監督するヒントとなったらしい。

 『魔女』の企画を思い立ったクリステンセンは、18年から21年にかけて、背景となる魔術の歴史の研究に没頭したという。『魔女』は全七部からなる構成となっている。一部は魔女についての図柄などによる記録映画的な詳細考察。二部は魔女による毒薬や媚薬などの調合方法の再現ドラマになる。三部、四部、五部にかけて魔女裁判、魔女の拷問、サバトの狂宴が、クライマックスと言うに十分なエグ味をタップリと盛り込んだ迫力で描かれる。六部では拷問道具の数々が人体を使ってかなり綿密に考察される。この辺は、拷問マニア、SMマニアには必見だろう。七部は現代(21年)となり魔女の狂気と精神疾患の関連性が考察される。中世から現代に飛ぶ構成は、グリフィスの『イントレランス』を多分に意識したのかもしれない。再現ドラマと記録映画的考察というパノラミックな構成は、江戸、明治、大正、昭和の拷問の歴史を描いた名和弓雄の原作を、ルポルタージュ風に描いた傑作拷問映画『日本拷問刑罰史』(64年・小森白監督)を思わせる。ともあれドラマが主体の当時において、このような構成と内容で描いた作品は、まさに前代未聞であった。検閲委員会からの厳しい批判によりズタズタにされて公開されたにも拘らず、『魔女』は国際的な成功を収め一躍クリステンセンの名を知らしめた。

 『魔女』のヒットを受けクリステンセンは、ドイツのウーファより依頼を受けヴィリー・フレッチ、リル・ダごファー主演『彼の妻、未知の女』(23年)とアレクサンドラ・ゾリーナ、ライオネル・バリモア主演『不評の女』(25年)を監督する。どちらもさして話題になることもなく2作目の『不評の女』は早々と完成していたにも関わらずクリステンセンが、この映画を「自作ではない」と否定していたこともあり25年末まで公開されなかった。ウーファに心地良さを感じなかったクリステンセンは、前から話のあったMGMのルイス・B・メイヤーの招きで渡米することになった。

 

第四章 ハリウッド狂騒曲

 

 メトロ・ピクチャーズ、ゴールドウィン・ピクチャーズ、ルイス・B・メイヤー・ピクチャーズの所有権を獲得した全米劇場チェーンの総指マーカス・ロウは、24年ルイス・B・メイヤーと組んで、3社を合併してメトロ・ゴールドウィン・ピクチャーズ(MGM)・スタジオを創立した。トップはマーカス・ロウだったが経営権のみで、実質の権力は副社長であるルイス・B・メイヤーが握っていたのである。メイヤーはMGMを世界一のスタジオにすべく世界中から、有望な俳優、監督、スタッフを集めていた。

『魔女』を観たメイヤーは「一体こいつは何者だ!狂人かね?天才かね?」と叫んだという。クリステンセンのハリウッドでの第一作は、26年MGM生え抜きのスターであるノーマ・シアラー主演による『悪魔の曲馬団』であった。母を求めて孤児院を逃げ出したメリー(シアラー)は、悪漢カール(チャールズ・エメット・マック)に騙させそうになるが、カールはメアリーの純情に絆されて愛し合うようになる。だがカールは逮捕され入牢する。メアリーは騙されて曲馬団の曲芸師となるが、嫉妬され空中曲芸中に落下させられて下半身が不自由となる・・・。クリステンセンらしい屈折したキャラクターと凝った美術セットは目を引くが、ハリウッド調にマイルドな分かり易さが求められ大分毒抜きされた印象である。だが映画はヒットし、次作に取り掛かる。

 『嘲笑』(27年)は、白軍と赤軍のロシア内戦を背景に、ロン・チェイニイの無学な農民が公爵夫人のバーバラ・ベッドフォードに道ならぬ思慕を抱く。チェイニイが廃屋で疲れた切ったバーバラのブーツを脱がし、生足を洗面器で洗うという足フェチシーンが倒錯的でいい。後半、戦争太りの金持ち夫婦の屋敷に舞台が移るのだが、ここでもやはりローキー撮影やパン・フォーカス、さらにはシャドーを生かした撮影などを駆使しており、画面構成の妙は伺えるのだが、如何せんお話に捻りがなくチェイニイの演技に頼らざる得ないところが欠点であろう。クリステンセンの原作を使用しているのだが、MGM側は「ロシアの話など誰も興味がない」とプロットの改正を求めたがクリステンセンは突っぱねた。映画は会社の予想通りに大コケしてしまったため、クリステンセンの発言権も大幅に失効してしまう。

 MGMは最後のチャンスとばかりに、ジュール・ベルヌの「神秘の島」の映画化『竜宮城』(29年)を監督させるが、金のかかる大規模な水中撮影を主張して会社側と衝突し、遂に途中降板(クビ)させられる。映画はモーリス・トゥールヌールが引き継ぐがやはり途中降板し、最後は脚本が本職のルシアン・ハバードが完成した。26年から撮影が開始され29年にようやく完成したが、映画は大コケしてしまった。映画は二色テクニカラーで撮影された最初のSF映画と言われるが、カラープリントの全巻は行方不明だという。映画のクレジットにはトゥールヌールとクリステンセンのクレジットはない。本作はシネマヴェーラ渋谷で観ることが出来た。ヒロインのジャクリーン・ガズデンが、劇中でバイトギャグを噛まされるシーンが出てきて、思わずドキドキしてしまった。ベルヌの原作は「海底二万マイル」の前編的な内容になっているのも興味深い。結局、クリステンセンは本作を最後に、MGMを追い出されてしまう。

 クリステンセンは新天地ファーストナショナルで再出発する。因みにファースト・ナショナルは28年9月にワーナー・ブラザーズ過半数の株を獲得し、実質的にワーナーの管理下となった。第一回作品のミルトン・シルス主演『鷲の巣』(28年)は、ニューヨークの“鷹の巣”と呼ばれる密造酒店を舞台にしたギャング映画でチャイナギャングのボス役で上山草人も出演しているらしいのだが、今はロストフィルムとなり観ることは叶わない。チェスター・コンクリン、セルマ・トッド主演の『妖怪屋敷』(28年)は、オーウェン・デイヴィスの舞台劇の映画化で、岡の上の別荘を舞台にしたスリラーもので、サウンド版とサイレント版が製作された。セルマ・トッド、クレイトン・へーる主演の『恐怖の一夜』(29年)は、高価なルビーを巡るスリラーで、上山草人がこちらでも重要な役で出演している。チェスター・コンクリン、ルイズ・ファゼンダ主演の『ダイヤモンド事件』(29年)は、ニューヨークに住む叔父が所有する青ダイヤを狙う宝石密輸一味との攻防を描くスリラー・コメディ。チェスター・コンクリンが降霊術に凝っていて「こっくりさん」をやるのが面白い。本作はそこそこヒットしたものの、結局は低予算のB級映画でクリステンセンもストレスの満足のいくものではなかった。本作を最後に、クリステンセンはハリウッドを去ることとなった。

 

第五章 その後のクリステンセン

 

 傷心のまま故国デンマークに戻ったクリステンセンだったが、ハリウッド映画の浸食により故国の映画産業も壊滅状態になっていた。そのため映画製作活動もままならず、舞台監督に戻る道しか残されていなかった。やがて10年の歳月が流れた39年に、世代のギャップを描いた社会派メロドラマ『離婚者の子供たち』で、久々の監督復帰を果たす。以降、中絶問題を取り上げた『子供』(40年)、ボデイル・イプセン主演のメロドラマ『ぼくと一緒に家へ行こう』(41年)、スパイスリラー『淡色の手袋の婦人』(42年)と1年1作のペースで監督していたが、資金難もあり監督活動に終止符を打たざる得なかった。44年からはコペンハーゲン郊外にある映画館の館主として、ひっそりと過ごしたという。そして1959年4月2日に80年の生涯を閉じた。

 本稿が一代の天才監督であるベンヤミン・クリステンセン再評価の一端になれば嬉しく思う次第である。

 

(フィルモグラフィ)

密書(兼脚本・主演*デビュー作)(14年)、復讐の夜(兼脚本・主演)(16年)、美しいイルメリン、手と足で(以上短篇、20年)、魔女(兼脚本・出演)(22年)、彼の妻、未知の女(兼脚本)(23年)、不評の女(25年)、悪魔の曲馬団(兼原作・脚色)(26年)、嘲笑(兼脚本)(27年)、鷹の巣、妖怪屋敷(以上28年)、恐怖の一夜、ダイヤモンド事件、竜宮城(ルシアン・ハバード、モーリス・トゥールヌール/共同脚色・共同監督)(以上29年)、離婚者の子供たち(兼脚色)(39年)、子供(兼共同脚色)(40年)、ぼくと一緒に家へ行こう(41年)、淡色の手袋の婦人(兼脚本)(42年*遺作)

 

(参考文献)「昔むかしデンマークにこんな監督がいた」by北垣善宣~「シネマ・ワンダーランド」(82年・フィルムアート社)収録

新映画原理主義・第九回「ワイルドで行こうぜ!~コーネル・ワイルド

 

第一章 ハンガリーからアメリカへ

 

 コーネル・ワイルドは1912年10月13日、ハンガリーのプリュエヴィドザ(現在はスロヴァキアの一部)に、ユダヤ人家庭のコルネル・ラヨス・ワイズとして生まれた。1920年、8歳の時に両親と姉と共にニューヨークへ移住した。家族はみな英語名に改名し、コーネルもコーネリアス・ルイス・ワイルドと名を改めた。ニューヨークのタウンゼントハリス高校を卒業し、ニューヨーク市立大学シティカレッジの医学部に入学し奨学金を受けるが、演劇熱に侵されてシオドア・アーウィン演劇研究所に通い大学は一年で中退してしまう。一方、米国オリンピックチームの主将も務めており、36年のベルリン・オリンピックへの出場も決まっていた。だが、これも演劇の大役が決まったために直前にチームを辞めてしまう。(*オリンピックに米国代表のフェンシング選手として出場した、という通説が長い間流布していた。)フェンシングの遠征などでヨーロッパを転戦したおかげもあり、英語は勿論、母国のハンガリー語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語の六か国語が堪能というインテリである。 

 ちょっとしたコネがあり、36年のパラマウント映画「リズムパーティ」(フレッド・ウォーラー監督)という短篇で、パーティ客として映画デビューを果たすものの、次には繋げるのは困難であった。37年にはマージョリーハインツェン(後の女優パトリシア・ナイト)と結婚する。仕事を得るために年齢を3歳サバを読み、名前も分かり易くコーネル・ワイルドと改めた。1915年、ニューヨーク生まれ、という公式プロフィールは、この頃に作られたものであろう。

 

第二章 ハリウッドで俳優稼業 

 

 40年のブロードウェイ公演、ローレンス・オリヴィエとヴィビアン・リー主演の「ロミオとジュリエット」で、フェンシングの腕を買われてフェンシング指導と共にティボルト役も獲得する。これを観劇したワーナー・ブラザーズ関係者にスカウトされて契約する。ミリアム・ホプキンス主演『赤い髪の女』(40年・カーティス・バーンハート監督)にノンクレジット出演後、ボギーの出世作である『ハイ・シェラ』(41年・ラオール・ウォルシュ監督)で本格的デビューする。だがWBの待遇に不満を抱き、同年20世紀フォックスへ移籍して『パーフェクト・スノッブ』(レイ・マッカレイ監督)で早くも初主演を果たす。モンテ・ウーリイ、アイダ・ルピノ共演の『人生の始まる夜』(42年・アーヴィング・ピチュエル監督)では、脚の悪いルピノと恋仲となる音楽家青年を好演。これが45年の『楽聖ショパン』(チャールズ・ヴィダー監督)に繋がった。母国の偉人でもある主役のフレデリック・ショパン役を熱演したワイルドは、アカデミー賞主演男優賞にノミネートされるという快挙を成し遂げた。同じハンガリー出身のヴィダー監督の好演出もあり、ワイルドにとって生涯の代表作となった。

 その後は『哀愁の湖』(45年・ジョン・M・スタール監督)、『永遠のアムバア』(47年・オットー・プレミンジャー監督)と言ったロマンチックな役処と、『千一夜物語・魔法のランプ』(45年・アルフレッド・E・グリーン監督)、『戦うロビン・フッド』(46年・ジョージ・シャーマン、ヘンリー・レヴィン監督)では、剣戟スターとしての資質を見せた。またフィルムノワールとしてはリチャード・ウィドマークアイダ・ルピノ共演の『深夜の歌声』(48年・ジーン・ネグレスコ監督)、サミュエル・フラー脚本、ダグラス・サーク監督の異色コンビによる『ショックプルーフ』(49年)が印象的。『ショック~』は、当時結婚していたパトリシア・ナイトとワイルドの珍しい共演作であった。

 

第三章 スター俳優としての低迷

 

 50年代に入るとアカデミー作品賞を受賞した『地上最大のショウ』(52年・セシル・B・デミル監督)のような大ヒット作を除けばスターとしての商品価値は落ちて行った。デミルの最後の超大作『十戒』(56年)ではジョシュア役を振られたが、主役でないのはともかく役自体が小さくギャラも安かったので断った。結局、その役はジョン・デレクが演じた。51年には長年連れ添ったパトリシア・ナイトと別れ、同年には女優のジーン・ウォーレスと再婚した。

 ワイルドは主演にこだわりをみせるが、やはりフェンシングの腕頼りで『剣豪ダルタニアン』(52年・ルイス・アレン監督)、『渓谷の騎士』(54年・アーサー・ルービン監督)、『勇者カイヤム』(57年・ウィリアム・ディターレ監督)といったB級剣戟スターに落ち着いた。『征服者』(52年・ルー・ランダース監督)は西部劇でありながらワイルドの希望なのか、クライマックスはフェンシングで対決するという異色作であった。初のイタリア映画『コンスタンチン大帝』(61年・リオネロ・デ・フェリス監督)では、タイトルロールのコンスタンチン大帝を演じて達者な剣捌きを見せた。フィルムノワールでは暗黒街撲滅もので、フイリップ・ヨーダン脚本、ジョセフ・H・ルイス監督の傑作『暴力団ビッグ・コンボ)』(55年)におけるタフガイ刑事役の熱演が光った。ドン・シーゲル監督のB級アクション『グランド・キャニオンの対決』(59年)では、脇のミッキー・ショーネシージャック・イーラムの小芝居を主役らしく受け切る懐の深さもみせた。TVM『ショック!生きていた怪獣ガ―ゴイルズ』(72年・B・W・ノートン監督)では、伝説の鳥人獣ガ―ゴイルを追う考古学者を還暦にして熱演した。本作はTVMながら無名時代のスタン・ウィンストンが特殊造形などに参加しているマニアにとってはカルトな一作である。

 

第四章 監督作の先見性

 

 スターとしての人気が頭打ちとなって行った50年には、監督業にも意欲を示した。自らの製作プロダクション“セオドラ・プロダクション”を妻のジーン・ウォーレスと共に設立した。その第一作は夫婦が主演した『大雪原の決闘』(55年)であった。雪山の交通が絶たれた山小屋に避難した子連れ家族の元へ、銀行強盗の三人組が押し入ってくる、というサスペンスもの。後年、『アラバマ物語』(62年・ロバート・マリガン監督)と『テンダー・マーシー』(82・ブルース・ベレスフォード監督)でアカデミー脚色賞と脚本賞を受賞した、劇作家のホートン・フートの映画脚本第一作なので、構成がしっかりしており主演を兼ねたワイルドの演出ぶりも手堅く十分及第点を与えられる。第二作もセオドラ・プロ製作の『地球で一番早い男』(57年)で、製作・脚本・監督・主演の四役を兼ねた。アメリカにおけるスピードレース最高峰と言われる“悪魔のヘアピン”と異名をとる難関コースを109周するレース映画。カラー、ヴィスタヴィジョンの画面に炸裂する迫力のレースシーンは、後年のシネラマ、レース映画『グラン・プリ』(66年・ジョン・フランケンハイマー監督)を彷彿させる。『マラカイボ』(58年)は、南米ヴェネズエラのマラカイボの海底油田の火災消火に命を賭ける男(ワイルド)を描いたスペクタクル・アクション。これも後年のジョン・ウェイン主演の油田消火もの『ヘルファイター』(68年・アンドリュー・V・マクラグレン監督)を想起させる。『剣豪ランスロット』(63年)は、ワイルドがアーサー王の円卓の騎士ランスロットを演じ、グイニヴァ妃にジーン・ウォーレスが扮した。得意の剣戟ものなので、安定した出来栄えを示した。

 ワイルドの監督作品の中では、一般的に一番高い評価を得ているのが『裸のジャングル』(66年)である。アフリカを舞台に原住民によって衣服・武器・食料などを全て奪われた男(ワイルド)が、持てる勇気と知恵と生命力の限りをつくして生き抜くサバイバル・アクションの傑作である。54歳のワイルドが薄絹のみで全編出ずっぱりの大熱演を見せてくれる。本作の内容はメル・ギブソン監督の『アポカリプト』(06年)が、リメイクと言っていいほどに酷似している。

 ジェファーソン・パスカル名義で脚本も担当した『ビーチレット戦記』(67年)はセオドラ・プロ製作による低予算戦争ものだが、色んな意味で先駆けとなる内容となっている。アメリカ軍の反撃が激化した南太平洋の島にマクドナルド大尉(ワイルド)が指揮する海兵隊が上陸して、杉山大佐(小山源喜)率いる日本軍と激戦を展開する。まず、スティーヴン・スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』(98年)に影響を与えたという浜辺での上陸シーンが素晴らしい。低予算のため上陸用舟艇が1隻しかなくエキストラも十分に雇えない状況ながら、軍の記録フィルムを巧みにインサートして数千人規模の大群に見せている。本作がアカデミー編集賞にノミネートされたのも、頷ける見事な編集プロの仕事である。また兵士の喉に銃弾で穴が開く血なまぐさい描写などは、当時のヘイズコード(自主倫理規制)をよくすり抜けたと思わせるが、独立プロ作品なのでうまくすり抜けたのであろうか。ヘイズコードは68年に正式に廃止されて、レイテイング・システムに移行するだが、『俺たちに明日はない』(67年・アーサー・ペン監督)のクライマックスの壮絶な銃弾乱舞シーンは、ヘイズコード廃止一年前ながら既に制度そのものが瓦解していたのかもしれない。本作が凄いのは、兵士たちの内面にまで入り込んでいることである。故郷の両親や恋人などの回想や幻想がフラッシュバックで時折インサートされる。これはテレンス・マリック監督の『シン・レッド・ライン』(98年)に先駆けた構成と言えよう。因みにベストセラーとなったジェームズ・ジョーンズの小説は『大突撃』(64年・アンドリュー・マートン監督)で先に映画化されているが、こちらは至ってストレートな戦争映画となっている。本作が更に凄いのは、内面描写が米兵だけでなく日本兵までが描かれていることである。日米両兵士の内面が描かれるのは、『トラ!トラ!トラ!』(70年・リチャード・フライシャー舛田利雄深作欣二監督)、クリント・イーストウッド監督の『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』(以上06年)に先駆けている。これらの先見性を含め、本作が映画史の中でさして評価されていないのには、怒りさえ覚える。

 『最後の脱出』(70年)は、ジョン・クリストファーのSF小説の映画化で、環境汚染で穀物がダメになり、世界中に蔓延しつつある飢饉から逃れるためにロンドンを脱出する家族を描く。近未来の荒廃した地球と人々の描写がやけに生々しく迫って来る意欲作。ワイルドは出演はしていないが、ラジオの声で参加している。『シャーク・トレジャー』はスティーヴン・スピルバーグ監督の大ヒット作『ジョーズ』と同じ75年に製作されているので、単純に模倣とは言い切れない。カリブ海沖に沈んでいるらしい中世スペイン船の財宝をトレジャー・ハンター(ワイルド、ヤフェット・コットーなど)が引き上げようするが、その海域にはホオジロザメがうようよしていた。『ジョーズ』同様、人喰いザメとの攻防戦になるのだが、前半でサメを退治して財宝を手に入れてしまう。後半は脱獄囚たちとトレジャー・ハンターたちの対決という、ありきたりの展開となってしまうので尻つぼみとなる残念な作品。本作は『ジョーズ』のようにヒットしなかったようで、ワイルドの監督作品も本作が最後となってしまった。

 スター俳優が片手間ではなく本格的に監督業をするのは、クリント・イーストウッドロバート・レッドフォードケヴィン・コスナーメル・ギブソンらの先達と言えるのではないだろうか。作品数は決して多くないものの、その先駆性と独創性は特質すべきものがあり、中でも『裸のジャングル』と『ビーチレッド戦記』は、映画史的にも重要な作品と言えよう。

 99年、77歳の誕生日の3日後に白血病で死去した。『裸のジャングル』の続篇を準備していたというから、その創作意欲は最後まで衰えなかったのであろう。

 最後に彼の自伝からの引用を。「私はずっと前に、成功を運に頼ることは出来ないことに気付きました。私は自分の能力と経験を増やして、一生懸命、一生懸命に働きました。私の目標は、人生において何か価値のあることを達成し、自尊心と誠実さを持ってそれを実行することでした。」

 

(フィルモグラフィ)

リズムパーティ(フレッド・ウォーラー監督*短篇/デビュー作)(36年)、エクスクルーシブ(アレクサンダー・ホール監督*ノンクレジット)(37年)、赤い髪の女(カーティス・バーンハート監督)(40年)、ハイ・シェラ(ラオール・ウォルシュ監督)、ノックアウト(ウィリアム・クレメンス監督)、朝食にキッス(ルイス・セイラ―監督)、パーフェクト・スノッブ(レイ・マッカレイ監督)(以上41年)、マニラ・コーリング(ハーバート・I・リーズ監督)、人生の始まる夜(アーヴィング・ピチュエル監督)(以上42年)、氷上の花(ジョン・ブラーム監督)(43年)、楽聖ショパンチャールズ・ヴィダー監督)、千一夜物語・魔法のランプ(アルフレッド・E・グリーン監督)、哀愁の湖ジョン・M・スタール監督)(以上45年)、戦うロビン・フッド(ジョージ・シャーマン、ヘンリー・レヴィン監督)、100周年の夏(オットー・プレミンジャー監督)(以上46年)、ホームストレッチ(H・ブルース・ハンバーストーン監督)、スターへの階段(ジャック・リーガー監督)、永遠のアムバア(オットー・プレミンジャー監督)、あなたじゃなけりゃならない(ドン・ハートマン監督)(以上47年)、ジェリコの壁(ジョン・M・スタール監督)、深夜の歌声(ジーン・ネグレスコ監督)(以上48年)、ショックプルーフダグラス・サーク監督)、スイス・ツアー(レオポルト・リンデバーグ監督)(以上49年)、西部の二国旗(ロバート・ワイズ監督)(50年)、地上最大のショウ(セシル・B・デミル監督)、剣豪ダルタニアン(ルイス・アレン監督)、征服者(ルー・ランダース監督)、語らざる男(ルイス・セイラ―監督)(以上52年)、ゴールデン・コンドルの秘宝(デルマー・ディヴィス監督)、ブロードウェイのメインストリート(ティ・ガーネット監督*本人役ゲスト)、サーディア(アルバート・リューイン監督)(以上53年)、渓谷の騎士(アーサー・ルービン監督)、ニューヨークの女達(ジーン・ネグレスコ監督)、怒りの刃(アラン・ドワン監督)、暴力団ビッグ・コンボ)(ジョセフ・H・ルイス監督)(以上54年)、熱い血(ニコラス・レイ監督)、豹の爪(ジョージ・マーシャル監督)(以上56年)、勇者カイヤム(ウィリアム・ディターレ監督)(57年)、グランド・キャニオンの対決(ドン・シーゲル監督)(59年)、コンスタンチン大帝(リオネロ・デ・フェリス監督)(61年)、ショック!生きていた怪獣ガーゴイルズ(B・W・L・ノートン監督*TVM)(72年)、バトル・オブ・ザ・バイキング(チャールズ・B・ピアース監督)(78年)、四銃士ケン・アナキン監督)(79年)、肉体と弾丸(カーロス・トバリナ監督*遺作)(85年)

 

(監督作品)

大雪原の死闘(兼・製作・出演*デビュー作)(55年)、地球で一番早い男(兼・製作・脚本・出演)(57年)、マラカイボ(兼・製作・出演)(58年)、剣豪ランスロット(兼・製作・脚本・出演)(63年)、裸のジャングル(兼・製作・出演)(66年)、ビーチレッド戦記(兼・製作・脚本・出演)(67年)、最後の脱出(兼・製作・脚本・声の出演)(70年)、シャーク・トレジャー(兼・製作・脚本・出演*遺作)(75年)

新映画原理主義・第8回「GPOとイーリングスタジオの俊英~ハリー・ワット」

 

第一章 英国ドキュメンタリー運動とアヴァンギャルド映画運動

 

 1930年代から戦争を挟んだ1940年代には、英国ドキュメンタリー運動がジワジワと映画界に浸透していた。この運動の嚆矢は28年に設立された帝国通商(EMB)に、ジョン・グリアスンが映画部を開設したことから始まったと言われている。グリアスンがEMBに映画部を作ったのは偶然ではなく、20年代にヨーロッパに起こったアヴァンギャルド映画(前衛映画もしくはシュールレアリズム映画)運動に起因している。『リズム21』(23年・ハンス・リヒター監督)、『理性への回帰』(23年・マン・レイ監督)、『幕間』(24年・ルネ・クレール監督)、『アネミック・シネマ』(26年・マルセル・デュシャン監督)、『伯林 大都会交響曲』(27年・ワルター・ルットマン監督)、『アンダルシアの犬』(28年・ルイス・ブニュエルサルバドール・ダリ監督)、『カメラを持った男』(29年・ジガ・ベルトフ監督)など大量のアヴァンギャルド映画が製作された。アヴァンギャルド映画運動は、アヴァンギャルド芸術運動とも同調しヨーロッパを席捲していった。

 グリアスンは映画の可能性に深く関心を持ち、アヴァンギャルド運動の熱量をまだ未開発であったドキュメンタリー映画に注ごうと試みた。アヴァンギャルド映画の主観性とドキュメンタリー映画の客観性は、相反するテーマと思われたが、ドキュメンタリー映画の深度が増すに従って、次第にお互いの長所が組み込まれて再構成されて行くことになる。グリアスンは『流網船』(29年)、『産業英国』(31年)を自ら監督して、フッテージを創造的に再編集するという方法論を実践した。33年、運動の拠点は中央郵便局(GPO)に移り、『セイロンの歌』(34年・バジル・ライト監督)、『夜行郵便』(36年・バジル・ライト&ハリー・ワット監督)、『火の手はあがった』(43年・ハンフリー・ジェニングス監督)、『英国に聞け』(42年・ハンフリー・ジェニングス&スチュアート・マカリスター監督)、『ティモシ―のための日記』(44-45年・ハンフリー・ジェニングス監督)などの傑作を送り出した。

 余談になるが、『ティモシ―~』は、30年以上前にシネマトグラフの上映会で『田舎司祭の日記』(50年・ロベール・ブレッソン監督)と日記映画二本立で上映し大盛況であった。ジェニングスの映画を初めて観賞して、彼を知らなかった己の無知ぶりに反省を促した。因みに現在普通に使われている“ドキュメンタリー”という言葉は、グリアスンが英国領サモア諸島の原住民の暮らしを撮影したロバート・フラハティ監督の『モアナ』(26年)に対して使った造語と言われている。

 

第二章 ハリー・ワットのドキュメンタリー修行

 

 ハリー・ワットは1906年10月18日、スコットランドエジンバラ生まれ。父親はスコットランド自由党議員のハリー・ワット。エジンバラ大学で学び、商船に入隊し、多くの産業関係の仕事に就く。そして31年にEMB映画部に入社する。グリアスンの招きで32年に渡英したロバート・フラハティが、アイルランドアラン諸島の自然と人間を1年半かけて撮影した傑作『アラン』(34年)では、ラッシュを観るため島に作られた現像所で助手を務めた。ドキュメンタリー映画の巨匠の元での助手仕事は、ワットにとってその後の自身の仕事への大いなる刺激となった。仕事の拠点がGPOに移った34年に短篇『6.30コレクション』で監督デビューを果たす。バジル・ライトと共同監督した36年の『夜行郵便』はグリアスンの方法論を忠実に実践した傑作で、本作に依ってワットは有望なドキュメンタリー監督として注目されることとなった。同年、アメリカのニュース映画シリーズ『マーチ・オブ・タイム』のロンドン部門の監督に抜擢され、多くのニュース映画を撮る。その後は劇映画的要素を入れた『ビル・ブルーイットの救出』(37年)や『ロンドンは耐えられる!』(40年)、『今夜のターゲット』(41年)など多くの優れた短篇ドキュメンタリーを監督した。特にナチスドイツの爆撃任務に参加したウエリントン爆撃機の乗務員を主人公にした『今夜のターゲット』は、巧みに劇映画的演出も盛り込んで緊張感を持続させた傑作で、42年度のアカデミー賞で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した。

 

第三章 マイケル・バルコンとの出逢い

 

 マイケル・バルコン率いるイーリング・スタジオに招かれて監督した『砂漠の9人』(43年)は、初の劇映画にして初の長編であった。ジャック・ランバート、ゴードン・ジャクソンらの出演で、英軍のアフリカ戦線における西部砂漠作戦がドキュメンタリータッチで描かれる。マイケル・バルコンは20年代初頭よりプロデューサーとしてのキャリアをスタートし、23年にはヴィクター・サビルと共同でゲインズボロ―・ピクチャーズを設立するが、ゴーモン映画社に吸収合併される。この時代の34年にバルコンはフラハティの『アラン』をプロデュースしており、ドキュメンタリー映画と劇映画の融合の可能性を模索していたと思われる。英国MGM映画の責任者を経て、38年にイーリング・スタジオの所長に就任する。02年設立の同社は慢性的不振に陥っており、剛腕で鳴らしたバルコンへの期待は大きかった。バルコンは、予てから考えていた低予算で最大の効率を上げられるドキュメンタリー・タッチの劇映画を、イーリングの売りにしようと動き出した。優れたドクメンタリー監督として売り出し中のハリー・ワットをスカウトしたのも、バルコンの大いなる読みであった。

 トミー・トリンダ―主演のコメディ『3人のバイオリン弾き』(44年)は不発だったが、次のオーストラリアロケを敢行した『オヴァランダース』(46年)は大成功を収めた。1942年のオーストラリアが舞台。シンガポールより勢いに乗り南下してくる日本軍より、主要食糧となる牛を守るため安全な南部へ千頭の牛を移動させるという、2500キロのオーストラリア大陸横断の悪戦苦闘を描いた本作は大ヒットした。イーリングがオーストラリアで製作を開始する切っ掛けとなり、主人公を演じたチップス・ラファティは人気スターとなった。

 映画の大ヒットに気を良くしたバルコンは、次の『ユーレカの砦』(48年)もオーストラリアで撮影しワットとチップス・ラファティに再びコンビを組ませた。1853年のオーストラリアのある州で金が採掘されたことから、全世界から一攫千金を夢見る採金師たちが集まって来た。だが争いも多く現地警察の横暴な対応に採金師たちの怒りが爆発。ユーレカの丘に砦を築いて立て籠もる。国家は軍隊を派遣し砦を攻撃するが・・・。『オヴァランダース』のような爽快さに欠けたためか映画は失敗し、バルコンはワットにオーストラリアロケをやめさせて、映画の題材を求めて東アフリカ行きを命じる。英国領東アフリカを舞台にした『禿鷹は飛ばず』(51年)はテクニカラーによる色彩映画。野生動物の濫獲に悩む主人公アンソニー・スティールが密猟者と対決する。アフリカの野生動物の生態が美しい色彩で紹介される珍しさも手伝って映画は大ヒット。続編の『秘境ザンジバー』(54年)もアフリカを舞台にした色彩映画だったが、二番煎じ感は拭えずコケてしまう。諸事情からマイケル・バルコンが55年にイーリング・スタジオを退職したことで、ワットは大きな後ろ盾を失い自らも同年にイーリングを辞めてしまう。

 

第四章 その後のハリー・ワット

 

 55年から話のあったスペインのグラナダテレビでプロデューサーとして働くが、やはり映画現場への夢断ち難く1年も絶たないうちに退職してしまう。古巣イーリング・スタジオに再び売り込み、長年眠っていたシナリオを掘り起こした。それがオーストリアを舞台にした『全市爆砕!』(59年)であった。シドニー刑務所をアルド・レイたち囚人数人が脱獄し、ピンチカット島にある古い要塞に住民ヘザー・シアーズたちを人質にして立て籠もる。島に残る砲台から弾薬船を砲撃してシドニー市を壊滅させようと目論むが・・・。久々のオーストラリアロケによる骨太のアクションものだったが、興行的には失敗しワットとイーリングの縁もこれまでとなった。

 その後はリチャード・コンテ、ジャック・ホーキンスら出演のTVシリーズを手掛けた。遺作はデンマークで撮ったファミリーもの『白い種牝馬』(61年)であった。74年には回想録「カメラを見るな」も上梓した。

 ジョン・グリアスン、マイケル・バルコンといった英国映画界のビッグネームの元で、しっかりした作品作りをしてきたハリー・ワットの功績は、もっと高く評価されて然るべきであろう。

 

(フィルモグラフィ)

6.30コレクション(デビュー作)(34年)、夜行郵便(バジル・ライト共同)(36年)、ビル・ブルーイットの救出、ビッグ・マネー(以上37年)、ファースト・デイ(ハンフリー・ジェニングス、パット・ジャクソン共同)、ロンドンは耐えられる!、炎の下のクリスマス、992飛行隊、英国湾、フロント・ライン(以上40年)、今夜のターゲット(41年)、21マイル(42年)(*以上全て短篇)、砂漠の9人(43年)、3人のバイオリン弾き(44年)、オヴァランダース、ユーレカの砦(以上48年)、禿鷹は飛ばず(51年)、秘境ザンジバー、ピープル・ライク・マリア(短篇)(以上54年)、全市爆砕!(59年)、不思議な犬バラ(短篇)、白い種牝馬(*遺作)(以上61年)

新映画原理主義・第7回「カリブ海のサイクロン~マリア・モンテス」

 

第一章 カリブ海からハリウッドへ

 

 マリア・モンテス、本名マリア・アフリカ・ヴィダル・サント・シラスは、1912年6月6日、ドミニカ共和国バラホナ生まれ。余談ながらバラホナにある国際空港は後に“マリア・モンテス国際空港”と名付けられた。父親はスペイン人でサンドミンゴスのスペイン名誉副領事であった。カナリア諸島で教育を受けた後、15歳でアイルランドへ渡る。そこで舞台の魅力に取り付かれ舞台女優としてデヴューし、いくつかの舞台に上がった。32年、20歳の時に裕福なアイルランド人ウィリアム・G・マクフィーターズと結婚した。だが結婚生活は長く続かず39年に離婚してしまう。同年ひとりで渡米して、ニューヨークで170cmの長身を生かしてモデル活動を行う。ほどなく娯楽の王様であった映画女優の道を志し、40年にユニヴァーサルのスクリーン・テストに合格した。同年、ジョニー・マック・ブラウン主演、レイ・テイラー監督の『地金都市のボス』で、脇役ながらクレジット4番目の大役を与えられて女優デビューを果たす。エキゾチックなルックスとちょっとセクシーな言葉のアクセントは、大いなる宣伝ポイントとなった。

 このエキゾチック系の女優ジャンルは、無声時代のセダ・バラに始まり、MGM美術監督の大御所セドリック・ギボンズ夫人に収まったドロレス・デル・リオ、そのライバルでジョニー・ワイズミュラーと結婚し、荒々しい性格から“メキシコの山猫”の異名を取ったルぺ・ヴェレス、パラマウントの『珍道中』シリーズでビング・クロスビーボブ・ホープとトリオを組んだドロシー・ラムーアと枚挙にいとまがない。

 

第二章 善隣外交政策

 

 時代は“ニューデール政策”で世界恐慌からアメリカ経済を救った第32代大統領フランクリン・D・ルーズベルトの治世であった。39年のアドルフ・ヒットラー総統率いるナチス・ドイツの電撃作戦によるヨーロッパ大戦の開戦により、ウィンストン・チャーチル首相のイギリス寄りの立場を取っていたルーズベルトは慎重な姿勢を崩さなかった。というのもヨーロッパでの開戦により、ヨーロッパ各国との経済的交流が滞ることとなり、ようやく回復した経済に大打撃を与え兼ねなかった。その代替として経済的発展の著しい南米諸国との絆を強めようとした。それは“善隣外交政策”と言われ強力な経済的な支えとなった。経済面ではハリウッドの映画産業も大きな役割を果たすことになった。40年以降、ラテンアメリカ諸国の女優や男優を多く起用した映画が多数製作されることになった。ルーズベルトの肝いりに対して、最初に名乗りを挙げたのは、20世紀フォックスの代表ダリル・F・ザナックであった。ザナックは頭に巨大なバナナの帽子を被って奇抜な歌と踊りを披露するブラジルの歌姫カルメンミランダを起用し、『バナナ・ムーヴィー』シリーズを連作して興行的ヒットを飛ばした。ラテンアメリカに対するステレオタイプのイメージは、このシリーズでほぼ確立したものと思われる。

 

第三章 カリブ海のサイクロン 

 

 マリア・モンテスも、このラテン・アメリカ・ブームの波に乗ったエキゾチック路線で売り出すこととなり、ジョン・ホール、サブウ、ターハン・ベイが共演者としてピックアップされた。その主演第一作が42年の『アラビアン・ナイト』(ジョン・ロウリンズ監督)であった。有名な「アラビアン・ナイト」の物語からキャラクターを借りてハリウッド風に自由に脚色したもので、当時としては煽情的な衣装をまとって踊るシェラザード役のモンテスはテクニカラーの画面によく映えた。次作『ホワイト・サヴェージ』(43年・アーサー・ルービン監督)でもジョン・ホール、サブウと共演。『アリババと四十人の盗賊』(44年・アーサー・ルービン監督)ではアリババ(ジョン・ホール)の恋人役でセクシーな肢体を披露した。彼女の人気は沸騰し“カリブ海のサイクロン”や“テクニカラーの女王”の呼称がつけられ、ユニヴァーサルのドル箱となった。その後も『コブラ・ウーマン』(44年・ロバート・シオドマク監督)、『山猫ジブシ―』(44年・ロイ・ウィリアム・ニール監督)とエキゾチズム路線を突き進む。父親を暗殺されたマリア・モンテスのエジプトの女王が砂漠の盗賊ジョン・ホールの力をかりて復讐を果たす『スーダンの砦』(45年・ジョン・ロウリンズ監督)は、名コンビ、ジョン・ホールとの最後の共演作となった。『タンジールの踊子』(46年・ジョージ・ワグナー監督)は、タンジールを舞台にしたスパイ・メロドラマ。モンテスの戦後第一作だが、従来のエキゾチック路線もさすがに陰りが見えて来た。『風雲児』(47年)はマルセル・オフュルス監督の渡米第一作で、ダグラス・フェアバンクス・ジュニアがオヤジばりのチャンバラ活劇をみせ、モンテスは彩り役に甘んじている。結局、ロッド・キャメロン共演の『モントレイの海賊』(47年・アルフレッド・L・ワーカー監督)が、最後のユニヴァーサル作品となった。

 

第四章 突然の死去

 

 この後は、セシル・B・デミル監督の大作『サムソンとデリラ』(49年)のデリラ役に応募するも落選するなどハリウッドでの行き場を失い、43年に二度目の結婚をしたジャン=ピエール・オーモンの祖国フランスへ渡った。この間に二児を設け、その内の1人が、後に女優となるテイナ・オーモンであった。またジャン・コクトー監督の代表作『オルフェ』(50年)でマリア・カザレスが扮した王女役のオーデイションも受けたようである。

 夫オーモンとは鴛鴦夫婦で、『マルセイユの一夜』(48年・フランソワ・ヴィリエ監督)、『魅惑の魔女』(49年・グレッグ・C・ダラス監督)、『海賊の復讐』(51年・プリモ・セグリオ監督)といったオーモン主演作でも夫婦共演をしている。ローマで撮影された『海賊の復讐』の後、51年9月7日、入浴中に心臓発作を起こしてバスタブで溺死してしまう。39歳という若さであった。8月に撮影された『海賊の復讐』では、撮影中に結婚8周年の祝いをしたばかりであった。夫オーモンの悲しみは勿論だが、当時5歳だった後のテイナ・オーモンの悲しみはいかばかりだったであろうか・・・。

 正直なところを言うならば、演技、踊り、歌に特出したわけでもなかったモンテスが、そのエキゾチックな美貌だけで短期間ながら人気スターに成り得たのは、前記したようにルーズベルトの”善隣外交政策”によるハリウッドのラテン・アメリカ諸国の大規模な取り込みがあったことは忘れてはならない。また少年の日、テレビ放映にて観た『アラビアン・ナイト』で、シェラザードに扮したマリア・モンテスのセクシーな踊りが、目に焼き付いて離れないのも紛れもない事実なのである。

 

(フィルモグラフィ)

地金都市のボス(*デヴュー作)、透明女性(以上40年)、幸運な悪魔、リオの夜、砂漠のライダー、ムーンライト・イン・ハワイ、タヒチの西、ボンベイ・クリッパー(以上41年)、マリー・ロジェの秘密、アラビアン・ナイト(以上42年)、ホワイト・サヴェージ(43年)、アリババと四十人の盗賊コブラ・ウーマン、フォロー・ザ・ボーイ、山猫ジプシー、バワリ―からブロードウェイへ(以上44年)、スーダンの砦(45年)、タンジールの踊子(46年)、風雲児、モントレイの海賊(以上47年)、マルセイユの一夜(48年)、魅惑の魔女、死の肖像(以上49年)、ヴェニスの泥棒(50年)、愛と血、ナポリを覆う影、海賊の復讐(*遺作)(以上51年)

(*未公開作は英語、仏語、伊語ともに、ほぼ直訳である)

新映画原理主義・第6回「サミュエル・ブロンストンとブリジッド・バズレン」

 

第1章 苦闘するサミュエル・ブロンストン

 

 サミュエル・ブロンストンは、1908年3月26日ロシア帝国(現在のモルドバ)のベッサラビアキシニョフ生まれ。ウラジーミル・レーニンと対立し国外に亡命して、40年パリで暗殺された社会主義革命家レオン(レフ)・トロッキーの甥。フランスのソルボンヌ大学で学び、卒業後はパリにあるMGMのフランス支部の営業部門に勤務した。本格的に映画製作に関わるべく37年にハリウッドへ渡り、苦闘の末の43年自らの製作会社“サミュエル・ブロンストン・プロダクション”を設立した。最初の製作作品は、同年のアルフレッド・サンテス監督、マイケル・オシュア、スーザン・ヘイワード主演の冒険活劇『ジャック・ロンドン』で、UA(ユナイテッド・アーテイスツ)の配給でまずまずの興行成績を収めた。以降、プロダクションはUAとコラボレーションしていくことになる。続いてシドニーサルコウ監督、リンダ・ダーネルエドガー・ブキャナン主演のフイルムノワール『黒い霧の果て』(43年)を製作し一応の成果を挙げた。勢いに乗ったブロンストンは、ヨーロッパ戦線での一小隊の実話を映画化したルイス・マイルストン監督、ダナ・アンドリュースリチャード・コンテ主演の『激戦地』(45年)の製作に着手するが、資金元であるユナイトが同時期に製作していたジャーナリスト、アーニー・パイルの従軍日記を映画化したウィリアム・A・ウェルマン監督、バージェス・メレディスロバート・ミッチャム主演の大作『G・Iジョー』(45年)との競合を嫌い資金提供を中止した。だがブロンストンは契約をたてに訴訟を起こし、おおむねで勝利して映画を何とか無事に完成させた。だが資金元に訴訟を起こしたことから、ユナイトとの関係もこじれてしまい自身のプロダクションによる映画製作も頓挫してしまう。

 

第2章 アメリカのブリジッド・バルドー

 

 ブリジット・バズレンは1944年6月9日ウィスコン州フォン・デュ・ラで誕生。父は有名小売りチェーンの幹部のアーサー・バズレン、母はシカゴ新聞のコラムニストのマギー・デイリー。7歳の時、自宅前でスクールバスを待っている所をNBCの幹部に見初められて、小さな役でテレビデヴューする。WGN―TVの「青い妖精」(58~59年)では、14歳にして初主演を果たす。この番組はカラーで撮影されたWGN―TVチャンネル9初期の子供向け番組である。青いマントを着てダイヤモンドのティアラを頭につけ、銀の杖を握りしめたバズレンが、ワイヤーで吊り下げられて小さなテレビステージを飛び回り、口パクで「私は青い妖精です。あなたの願いを叶えます。あなたの夢をすべて叶えます。」と視聴者に語り掛けた。番組は好評で新しいテレビ番組にも次々と出演し、その美少女ぶりから「次のエリザベス・テイラー」ともてはやされた。それに目をつけたMGMがスカウトし61年、17歳の時にMGMと専属契約を結んだ。MGMとの契約期間中、バズレンはBBの頭文字から宣伝キャンペーンで「アメリカのブリジッド・バルドー」と宣伝された。映画初出演は、まだブレーク前の若きスティーヴ・マックィーンと共演したリチャード・ソープ監督の『ガールハント』(61年)であった。これはロレンツツォ・センプル・ジュニアのヒット舞台劇「ゴールデン・フリーシング」の映画化で、バズレンは雷提督ディーン・ジャガーの娘ジュリー役。髪をアップにして、その美貌があからさまになった彼女は、バルドーというよりエリザベス・テイラー似で、このあたりも宣伝部が売り出し方をミステイクしてしまったのではないだろうか。だが彼女の自然な演技とスター性は十分うかがい知ることが出来る。

 

第3章 70mm大作の連発

 

 ユナイトとの関係悪化もありハリウッドで従来通りの製作が難しくなったブロンストンは、ユナイトとの訴訟裁判で凍結された資金が多数あることを知り、これを利用しない手はないと考え実行に移した。プロデューサーとしての手腕を大いに発揮したブロンストンは、巨額の資金及びスポンサーを獲得し、人件費の安価なスペインに製作の拠点を移すことにした。まず手始めに手掛けたのは、ジョン・ファロウ監督、ロバート・スタック主演の『大海戦史』(59年)であった。これはアメリカ海軍の創設者と言われるジョン・ポール・ジョーンズの生涯を描いた海洋ドラマで、海戦シーンの迫力は一部で話題になった。キャサリン大帝で出演のべティ・デイビスも作品に花を添えた。

 ブロンストンは夢であった壮大な規模の大作を実現するためスペインのマドリード郊外に巨大なスタジオを建設した。そうした下準備により製作された最初の70mm、165分の大作が、キリストの生涯を描いたニコラス・レイ監督、ジェフリー・ハンター主演の『キング・オブ・キングス』(61年)であった。本作はハリウッドにおいてキリストの顔を正面から取り上げた最初の作品でもあった。キリスト役はキース・ミッチェル、クリストファー・プラマーピーター・カッシング、マックス・フォン・シド―(*後年『偉大な生涯の物語』(65年・ジョージ・ステイ―ヴンス、デヴィッド・リーンジーン・ネグレスコ監督)でキリストを演じた)らが候補に挙がったが、瞳の説得力が買われてジェフリー・ハンターが抜擢された。ハリウッドの異端児であったニコラス・レイはキリスト物語を宗教面ではなく人間ドラマとして掘り下げて、非常に陰影の深い作品に仕上げた。MGMはサロメ役に新人ブリジッド・バズレンを猛プッシュして見事に役を獲得した。当時17歳のバズレンは妖艶なサロメを演じ切れるか不安視されたが、見事に不安を一掃しニュータイプサロメ像を印づけた。祝宴においてヘロデ王の眼前で肉体の歓喜と欲情を表現するかのように踊る姿は本作のハイライトと言ってもいい素晴らしい出来栄えであった。ある意味、3本の映画出演しかないバズレンにとって、本作がキャリアのピークと言っても過言ではなかった。映画は大ヒットし、ブロンストンは次への大作へ取り掛かった。

 アンソニー・マン監督、チャールトン・ヘストンソフィア・ローレン主演の『エル・シド』(61年)は、今までで最大の製作費を投入した70mm、184分の超大作。11世紀後半のカスティーリャ国の英雄と謳われた“エル・シド”ことロドリーゴ・ディアス・デ・ビバールの生涯を描く。ベラ・ユサフ(ハーバート・ロム)率いるムーア人の侵略に弱腰の国王に代わり孤軍奮闘するエル・シド。最後の決戦たる海岸におけるバレンシアの戦いは、CGのない時代だけに膨大な数のエキストラが投入され今では実現不可能な大スペクタクルシーンとなっている。当時はフランコ政権だったが、映画好きのフランコをうまく懐柔しスペイン軍をエキストラとして大量投入出来たのも、ブロンストンの面目躍如といったところだろう。映画は大ヒットし、アカデミー賞は各賞ノミネートだけに終わったが、ブロンストンはゴールデングローブの優秀賞を受賞した。

 ニコラス・レイ監督、チャールトン・ヘストンエヴァ・ガードナー、デヴィッド・二―ヴン主演の『北京の55日』(63年)も70mm、160分の大作。1900年の清朝時代の中国北京に反乱軍たる義和団が押し寄せる。11か国が居住する地区が包囲されて籠城を強いられて55日間戦った実話の映画化。日本軍の菊五郎中佐には若き伊丹十三(*伊丹一三名義)が参加しているが出番はわずかであった。これもフランコ政権の協力により、スペイン軍がエキストラとしてスペクタクルシーンを盛り上げた。戦闘シーンを演出する第二班監督として『ベン・ハー』(59年・ウィリアム・ワイラー監督)や『史上最大の作戦』(62年・アンドリュー・マートンケン・アナキン、ベルンハルト・ヴィッキ監督)の名スペクタクルシーンの演出で知られる、アンドリュー・マートンが起用されている。本映画は中国が舞台ということもあり、興行的には思ったほどヒットせず、ブロンストンの製作姿勢にも少しずつ暗い影を落としつつあった。

 

第4章 その後のブリジッド・バズレン

 

 『キング・オブ・キングス』のサロメ役は好評だったものの、大作出演の後だけに、なまじの作品に出演することは避けられた。次に出演したのは、シネラマ、165分の超大作の『西部開拓史』(62年)であった。ヘンリー・ハサウェイジョン・フォードジョージ・マーシャルの3人監督で、ジョン・ウェインジェームズ・スチュワートヘンリー・フォンダリチャード・ウィドマークデビー・レイノルズ、キャロル・ベイカーなどオールスター。バズレンはヘンリー・ハサウェイ監督による第1話に登場。毛皮猟師のジェームズ・スチュワートを騙す河賊ウオルター・ブレナンの娘を演じた。大スター、ジミー相手にも物おじしない演技を見せたバズレンは、オールスターキャストの中で爪痕を残すことが出来たと思うが、MGMとの契約切れも重なりこれが最後の映画出演となってしまった。

 その後はテレビを中心に出演を続けたが、70年代には早くも引退してしまった。ガンに侵されて、89年5月25日還らぬ人となった。まだ45歳の若さだった。ブロンストンの大作主義がまだ続いていれば彼女の再起用の可能性もあっただけに惜しまれる女優であった。

 

第5章 大作主義の終焉

 

 アンソニー・マン監督、ソフィア・ローレン、ステイーヴン・ボイド、アレック・ギネス主演の『ローマ帝国の滅亡』(64年)は70mm、194分の大作。後年のアカデミー賞作品『グラディエーター』(00年・リドリー・スコット監督)と同じ背景を扱っている。今までの大作は男性が主役であったが、今回はソフィア・ローレン演じるアウレリウス帝の娘ルシアが主役で、売りのスペクタクルシーンは抑え気味で展開のテンポも悪い。そのせいもあってか興行的は大コケしてしまう。さらに映画スタジオ建設費の負担も重なり、ブロンストンは財政難に陥り、64年には全ての事業活動を停止せざるえなくなる。債権者ピエール・S・デュポンとの間に訴訟合戦が繰り広げられ、64年6月には破産宣告を受けてしまう。さらに、ブロンストンがジュネーヴに開設していた個人口座に対して、アメリカ連邦警察が偽証罪で訴追し、裁判で有罪判決を受ける。ブロンストンはこれを不服として最高裁判所に持ち込み長い裁判の結果、73年に有罪判決を覆した。だが破産と刑事訴追により、彼の映画キャリアは壊滅的な打撃を受けてしまった。

 破産宣告の直前に、ヘンリー・ハサウェイ監督、ジョン・ウェインリタ・ヘイワース主演の70mm、135分の最後の大作『サーカスの世界』(64年)を完成させていた。西部劇スタイルのサーカスの人間模様を描き、サーカステントの火災シーンがスペクタクルな見せ場となっていたが、従来の大作よりもスケールダウンの感は逃れなかった。デュークと初共演のリタ・ヘイワースアルツハイマーの初期兆候があり、遅刻や台詞覚えの悪さ、酒に酔っての暴言などを露呈し、デュークを痛く失望させた。興行的にも芳しくなくブロンストンの苦境に追い打ちをかけることになった。

 ブロンストンはその後も細々ながら製作を続けるが、アラン・コルノー監督、ジェラルド・ドパルデュー、カトリーヌ・ドヌーヴ主演のフランス映画『フォート・サガン』(84年)が最後の華道となった。映画斜陽期に差し掛かる時期に、大作主義を頑なに貫いた姿勢は潔く、映画界における一代の漢と言っていい存在であった。

 

(フィルモグラフィ*特筆以外は全て製作)

ジャック・ロンドン(アルフレッド・サンテス監督*デビュー作)、黒い霧の果て(シドニーサルコウ監督)(以上43年)、激戦地(45年・ルイス・マイルストン監督)、大海戦史(59年・ジョン・ファロウ監督)、キング・オブ・キングスニコラス・レイ監督)、エル・シドアンソニー・マン監督)(以上61年)、堕落者の谷(アンドリュー・マートン監督*短篇)、北京の55日(以上63年)、ローマ帝国の滅亡アンソニー・マン監督)、サーカスの世界(ヘンリー・ハサウェイ監督)(以上64年)、野蛮なパンパス(65年・ヒューゴ・フレゴネーズ監督)、コッペリウス博士(66年・テッド・ニュージェント監督)、ブリカム(77年・トム・マコ―ワン監督)、ドクターCのミステリー・ハウス(79年・テッド・ニーランド監督)、フォート・サガン(84年・アラン・コルノー監督*遺作)

新映画原理主義・第五回 「カメラを持ってた男~ルドルフ・マテ」

 

第1章 ヨーロッパ撮影監督時代

 

  ルドルフ・マテは1898年、オーストリア=ハンガリー帝国(現ポーランド)のクラカウに生まれた。ハンガリーの名門ブタペスト大学で美術を専攻した。19年、卒業後に後に英国へ渡りロンドン・フイルムを設立したアレクサンダー・コルダ主催のコルヴィン撮影所に入社し撮影技師として修業を開始し、ほどなく撮影監督となり、13年に短篇ながら第一作を撮影する。その後、ウィーンのサシャ撮影所へ移り、エリッヒ・ポーマー主催のベルリンのデクラ=ビオスコープ社で第二班撮影監督となる。24年、カール・テオドル・ドライヤー監督の『ミカエル』の撮影監督カール・フロイントが諸事情で現場を離れることとなりマテが後を引き継いだ。これでドライヤーに認められたマテは、ドライヤーがフランスで監督した『裁かるるジャンヌ』(28年)で撮影監督に起用される。異端審問裁判シーンにおける仰角を多用した大胆なクローズアップの連続は、ドライヤーとマルのコラボの賜物と言えよう。公開時は不評だったが、後年評価は上がり、やがて映画史上の古典の地位を確立した。ドライヤーとは32年の『吸血鬼』でも優れた仕事を残した。フランスでは『最後の億萬長者』(34年)でルネ・クレール監督、『リリオム』(34年)ではフリッツ・ラング監督という両巨匠ともコンビを組んだ。

 

第2章 ハリウッド撮影監督時代

 

 35年には渡米しハリウッド入りし、第一作はスペンサー・トレイシー主演の『ダンテの地獄篇』(35年・ハリー・ラクマン)であった。ウィリアム・ワイラー監督、ウオルター・ヒューストン主演の『孔雀夫人』(36年)、キング・ヴィダー監督、バーバラ・スタンウィック主演の有名な母もの『ステラ・ダラス』(37年)、レオ・マッケリー監督、アイリーン・ダンシャルル・ボワイエ主演のメロドラマの古典『邂逅(めぐりあい)』(39年)、アルフレッド・ヒッチコック監督、ジョエル・マクリー主演の傑作スリラー『海外特派員』(40年)、旧知のアレクサンダー・コルダ監督、ローレンス・オリヴィエヴィヴィアン・リー主演の『美女ありき』(41年)、エルンスト・ルビッチ監督、キャロル・ロンバート主演の傑作コメディ『生きるべきか死ぬべきか』(42年)、サム・ウッド監督、ゲイリー・クーパー主演のルー・ゲーリッグの伝記映画『打撃王』(42年)、ゾルタン・コルダ監督、ハンフリー・ボガート主演の戦争映画の佳作『サハラ戦車隊』(43年)、チャールズ・ヴィダー監督、リタ・ヘイワースジーン・ケリー主演のテクニカラー・ミュージカル『カバー・ガール』(44年)、リタ・ヘイワースが長い手袋を脱ぎながらセクシーに歌うシーンが有名なチャールズ・ヴィダー監督『ギルダ』(46年)、アレクサンダー・ホール主演、リタ・ヘイワース主演のテクニカラーのファンタジー『地上に降りた天使』(47年)など質・量ともにハリウッドで最も忙しい撮影監督となった。アカデミー賞には『海外特派員』『打撃王』『サハラ戦車隊』などで都合5回もノミネートされたが、残念ながら受賞には至らなかった。

 

第3章 監督として専念

 

 47年、ジンジャー・ロジャース主演のコメディ『It had to be you』で念願の監督デビューするが、ドン・ハーマンと共同監督扱いで撮影監督も兼ねており大いに不満が残った。撮影監督も兼ねずに晴れて単独監督したのが、ウィリアム・ホールデン主演のフイルムノワール『暗い過去』(48年)であった。刑務所を脱獄した殺人犯ウィリアム・ホールデン一味が、精神科医リー・J・コップの別荘を占拠する。コップはホールデンが少年時代のトラウマに悩んでいることを知り精神分析をする。ジョン・ヒューストンの『キー・ラーゴ』(48年)とロマン・ポランスキーの『袋小路』(65年)をザッピングしたような内容だが、初の単独監督ということもあったのか今一コクのない出来栄えとなった。因みに本作は、同じコロンビア映画でチェスター・モリス、ラルフ・ベラミー、アン・ドヴォラック主演の『ブラインド・アレイ(袋小路)』(39年・チャールズ・ヴィダー)のリメイクである。

 最初に監督としての手腕を認められたのは50年の第三作『都会の牙』であった。原題の“D・O・A”とは“Dead On Arrival”の略で”到着時死亡”と言う意味。ラストに刑事が報告書に押すスタンプが”D・O・A”である。何者かによって毒物を飲まされた主人公・エドモンド・オブライエンが刻々と迫りくる死の恐怖と闘いながら街中を走り回り、遂に毒を飲ませた犯人を突き止めて復讐を果たすが、自らも毒によって息絶える。ロケ効果を最大限に生かした撮影と的確な演出、そしてオブライエンの熱演により優れたスリラー作品となった。因みに『Colar Me Dead』(69年・エディ・デイヴィス)と『D・O・A』(88年・ロッキー・モートンアナベル・ヤンケル)と2度リメイクされている。次の『No Sad Songs for Me』(50年)はガンを宣告された人妻・マーガレット・サラヴァンの苦悩を描き演出の確かさを示した。『武装市街』(50年)はシカゴのユニオン駅を舞台にした令嬢(アレン・ロバーツ)の誘拐犯と市警察の応援を受けた鉄道警察警部補(ウィリアム・ホールデン)らの攻防がスリリングに描かれた。『都会の牙』で効果をあげたロケ撮影を縦横に駆使し前作に劣らぬ優れた出来栄えとなった。実際はシカゴの駅ではなくロスの駅を深夜から朝まで借り切って撮影が行われた。警察の犯人に対する暴力を肯定的に描いており、誘拐犯のボス(ライル・ベトガー)の冷酷非情さを際立たせることによって観客を納得させる狙いがあったと思われる。一方では、新星ザイラが地球をかすめさらに親星ベラスが地球と衝突することが判明し、選ばれた人々のみがロケットで脱出を図るという『妖星ゴラス』(62年・本多猪四郎)を先取りしたようなSF映画『地球最後の日』(51年)も手堅く監督している。

 

第4章 スターたちとの仕事

 

  ロック・ハドソンと並ぶユニヴァーサルの若手スター、トニー・カーティスの売り出しにも、『盗賊王子』(51年)、『命を賭けて』(53年)、『フォルオスの黒楯』(54年)、『顔役時代』(55年)と大いに貢献した。トニーとデビューしたてのパイパー・ローリーとコンビを組ませた第一作『盗賊王子』はスマッシュヒットしたが、ほどなくトニーがジャネット・リーと結ばれたのでローリーとのコンビを解消した。『フォルオスの黒楯』はジャネット・リーとの夫婦共演も話題となった。ブレイク前のチャールトン・ヘストンとは『遥かなる地平線』(55年)、『三人のあらくれ者』(57年)で組み彼のキャラクターを良く生かしている。コロンビア映画のスター、グレン・フォードとは、撮影監督を勤めた『ギルダ』(46年・チャールズ・ヴィダー)よりの馴染みで、『グリーン・グローヴ』(52年)は大戦中に教会より盗まれた宝石をちりばめた”グリーン・グローヴ”を巡る追跡劇。A・ヒッチコック『三十九夜』(35年)で知られるチャールズ・ベネットの脚本だが図式的な内容で、南フランスやモナコでのロケもさほど生かされなかった。『欲望の谷』(54年)は、元北軍将校のフォードがカウボーイに戻るが強欲な牧場主・エドワード・G・ロビンソンと対立し、これに夫ロビンソンを殺害しようとしている妻・バーバラ・スタンウィックが絡む中々ヘヴィな内容ながら、枝葉を切り捨てて手際よく処理しているのがマテらしいところ。タイロン・パワーが長年在籍した20世紀フォックスを退社しフリーとなった第一作『ミシシッピの賭博師』(53)は、ミシシッピに浮かぶ蒸気船のギャンブラーを主人公にしたユニヴァーサルの準大作。パワーのフリー第一作ということで、ユニバーサルはパイパー・ローリー、ジュリー・アダムスという二大若手スターを共演させる忖度ぶりを見せた。

 

第5章 ヨーロッパ監督時代

 

 60年以降はヨーロッパで監督することが多くなり、AIP製作でイタリアロケによる『カルタゴの大逆襲』(60年)は、いかついジャック・パランスが王子役なのは苦笑するしかなかった。『300(スリーハンドレッド)』(06年・ザック・スナイダー)でも描かれたベルシャとスパルタの戦いを描いた『スパルタ総攻撃』(61年)は、CGのない時代の人海戦術による戦闘場面は迫力がある。『海賊魂』(62年)は当時最強と言われたスペイン艦隊を相手に大胆不敵な海賊行為で、英国の国民的英雄と謳われたフランシス・ドレイク(ロッド・テイラー)の活躍を描いた海洋活劇。『Aliki My Love』(63年)は、ギリシャの国民的人気女優アリキ・ヴォウギオクラキをフューチャーした青春もの。結局、これが遺作となってしまった。翌64年、心筋梗塞によって66歳で死去。

 『裁かるるジャンヌ』を始め、撮影監督時代の作品歴が凄すぎて、監督転向後の作品があまり評価されないのは、ジャック・カーデイフやフレディ・フランシスと同様である。だが、1本1本考察して行けば、ルドルフ・マテの優れた演出力を必ず見通すことが出来るであろう。。

 

(主な撮影監督作品)

 

ミカエル(カール・テオドル・ドライヤー)(24年)、裁かるるジャンヌ(K・T・ドライヤー)(28年)、吸血鬼(K・T・ドライヤー)(32年)、最後の億萬長者(ルネ・クレール)、リリオム(フリッツ・ラング)(以上34年)、ダンテの地獄篇(ハリー・ラクマン)(35年)、孔雀夫人(ウィリアム・ワイラー)、大自然の凱歌(W・ワイラー、ハワード・ホークス)(以上36年)、ステラ・ダラス(キング・ヴィダー)(37年)、封鎖線(ウィリアム・ディータレ)、マルコ・ポーロの冒険(アーチ・L・メイヨ)、貿易風(ティ・ガーネット)(以上38年)、邂逅(めぐりあい)(レオ・マッケリー)、暁の討伐隊(ヘンリー・ハサウェイ)(以上39年)、ママのご帰還(ガーソン・ケニン)、海外特派員(アルフレッド・ヒッチコック)、妖花(ティ・ガーネット)(以上40年)、美女ありき(アレクサンダー・コルダ)、焔の女(L・クレール)(以上41年)、生きるべきか死ぬべきかエルンスト・ルビッチ)、打撃王(サム・ウッド)(以上42年)、サハラ戦車隊(ゾルタン・コルダ)(43年)、カバーガール(チャールズ・ヴィダー)(44年)、ギルダ(C・ヴィダー)(46年)、地上に降りた女神(アレクサンダー・ホール)、上海から来た女(オーソン・ウェルズ*ノンクレジット)(以上47年)

 

(全監督作品)

 

It had to be you(ドン・ハーマン共同*兼撮影)(47年)、暗い過去(48年*単独監督デビュー作)、都会の牙、No Sad Songs for Me、武装市街、烙印(以上50年)、盗賊王子、地球最後の日(以上51年)、The Green Glove、Faula、Sally and Saint Anne(以上52年)ミシシッピーの賭博師、第二の機会、命を賭けて(以上53年)、レッド・リバー、フォルウオスの黒楯、欲望の谷(以上54年)、遥かなる地平線、顔役時代(以上55年)、雨の夜の慕情、Pat Alrique(以上56年)、三人のあらくれ者(57年)、The Deep Six(58年)、初恋(59年)、カルタゴの大逆襲(60年)、スパルタ総攻撃、海賊魂、La Loute(短篇)(以上62年)、Aliki My Love(63年*遺作)

新映画原理主義「第四回 ポスト渡辺邦男と言われた男~志村敏夫

 

志村敏夫(1914~1980)

 

1・脚本家修業時代

 

 1914年10月13日、静岡県島田市生まれ。34年日本大学映画化を卒業。生来の映画好きで、大学在学中から脚本を書き始めたという。日大在学中の36年に脚本「五々の春」が高田稔プロ製作、牛原虚彦監督で映画化された。その後、粗製乱造で鳴らしていた河合映画の脚本も書いた。だが技術面の未熟を痛感し基本から勉強すべく松竹蒲田に脚本研究生として入所する。師匠は松竹大船所属で小津安二郎監督『生まれてはみたけれど』(32年)や五所平之助監督『人生のお荷物』(35年)などで知られる伏見晁(ふしみあきら)だという。勉学途中に徴兵され、北支で書いた脚本が斎藤寅次郎監督により『ロッパの駄々ッ子父ちゃん』(40年)として東宝で映画化された。40年に除隊し、同年、斎藤寅次郎監督による『親子鯨』の脚本が認められて、東宝脚本部に所属。一方では監督業にも触手を伸ばし、斎藤寅次郎作品の脚本を書き助監督も勤める。45年4月に二度目の招集を受けるが8月15日に終戦。晴れて東宝に復帰するが、直ぐに東宝争議が勃発する。撮影所が労働組合という名の共産勢力跋扈の場となり、映画製作が困難となる。それを嫌った斎藤寅次郎と共に、47年に新設されたばかりの新東宝へ入社する。 

 

2・新東宝で監督デビュー

 

 新東宝ではハリウッドのプロデューサー・システムをいち早く取り入れて、外部からもプロデューサーを招聘した。志村と旧知の筈見恒夫も新しいプロデューサーとなり、48年志村の監督デビューとなる『群狼』をお膳立てした。ヤクザによる殺人を目撃した銀行員・佐分利信が、ヤクザの脅かしや息子の誘拐に苦しめられるが、警察や武闘派の弟・藤田進の協力でヤクザたちを一掃する。デビュー作とは思えぬキビキビとしてスピーディな演出は潜在能力の高さを感じさせた。海洋アクション『海のGメン 玄界灘の狼』(50年)や本格的なミステリー『黄金獣』(50年)で確実な腕前を見せた。一方では並木路子主演の歌謡映画『バナナ娘』(50年)、小林桂樹主演の人情コメディ『月が出た出た』(51年)、森繁久彌主演の時代劇コメディ『色ごよみ 権九郎旅日記』(53年)、香川京子主演の明朗時代劇『姫君と浪人』(53年)、田崎潤主演のコメディ・タッチの股旅もの『すっ飛び千両旅』(53年)では、師匠である斎藤寅次郎直伝のコメディ演出も無難にこなした。因みに石井輝男は、初チーフを含め4本もチーフを担当しており、アクションの処理や早撮りの方法など、よく語られる渡辺邦男より志村敏夫を参考にしているのではないかと思われる節がある。

 当時はタブーだったシベリア捕虜収容所の話を真正面から描いた『私はシベリアの捕虜だった』(52年)はさすがにメジャー会社では製作が困難だったため独立プロのシユウ・タグチ・プロでの製作となった。阿部豊との共同監督で、阿部はドラマ部分を志村はアクションなどの外撮りを主に担当したという。かなり問題作で出来も悪くなかったが、独立プロ作品だけに興行的には苦戦した。鶴田浩二もよる戦後初めての俳優プロたる新生プロ製作の『薔薇と拳銃』(53年)は鶴田主演、島崎雪子田崎潤力道山が共演する異色のアクションもの。東映の大泉スタジオで撮影された縁から東映で配給された。独立プロデューサー、中井金兵衛率いる中井プロ製作で沼田曜一主演の反共映画『嵐の青春』(54年)も監督したが、こちらは新東宝で配給された。

 こうした各所での活発な活動が認められたのか、時代劇の監督不足に悩む宝塚映画から引きがあり、54年から55年の約1年間だけ限定移籍する。それて入れ替わるように、並木鏡太郎も短期レンタル移籍している。宝塚映画では、嵐寛寿郎の十八番『鞍馬天狗 疾風八百八町』を皮切りに、アラカン主演の『照る日くもる日 前後篇』(54年)、アラカン十八番の『右門捕物帖 献上博多人形』(55年)、アラカン主演、山中貞雄原作の『旗本やくざ』(55年)、中村扇雀主演の『海の小扇太』(55年)、そしてアラカン主演の『右門捕物帖 恐怖の十三夜』(55年)を最後に新東宝に復帰した。因みに『海の小扇太』は、脚本の師匠である伏見晁が脚本を担当した。

 

3・前田通子との蜜月

 

 復帰作のコメディ『息子一人に嫁八人』(55年)では、面接時に気に入ったという新人前田通子に大きな役を与えた。二人の関係は以後、どんどん深くなって行った。56年には前田通子初主演となる『女真珠王の復讐』を撮る。これは「アナタハン島事件」をベースにしたミステリー仕立ての復讐譚だが、何と言っても話題になったのは前田通子の後ろ姿ながら全裸がロングの短時間ながら映し出されたことである。これは戦後のメジャー邦画会社では初のことで、エログロ新東宝の名を嫌がうえにも轟かせた。これは志村と前田の深い関係性があってのことであったと思われる。久保菜穂子、宇津井健主演のメロドラマ『君ひとすじに(3部作)』(56年)は大蔵体勢になって初の本格的メロドラマで、3部作を1年で撮り切るという志村の早撮りの技がひと際光った。『君ひとすじに・完結篇』と『新妻鏡』(56年)は同時にクランクインし、列車内の撮影では前車両と後ろ車両で2本の撮影が同時に行われたこともあるという。怒濤の早撮り撮影の後は、佐分利信を招いた戦争大作『軍神山本元帥と連合艦隊』(56年)を撮る。映画はヒットし翌年の超大作『明治天皇と日露大戦争』(渡辺邦男)への大いなる布石となった。撮影所長も兼ねていた渡辺邦男は、既に大蔵貢との関係に終止符を打つ覚悟をしており、『明治天皇~』を置き土産に新東宝を去り大映へ移籍した。後任の撮影所長候補には、ベテランの並木鏡太郎や中川信夫の名も挙がったが、両者とも任ではないと固辞。そこで早く安く仕上げヒットメーカーでもある志村敏夫が、次の撮影所長候補の最有力となっていた。松竹の若杉英二は天城竜太郎と改名して新東宝へ入社し、その第一回となる講談「天保水滸伝」をベースにした新東宝オールスター時代劇『関八州大利根の対決』(57年)を撮る。天城竜太郎が現代劇で主演した『死刑囚の勝利』(57)は、実質的には前田通子のストリップ&セクシーダンスが売りで、大蔵イズムを大いに鼓舞させた。さらに『女真珠王の復讐』のヒットにあやかった前田通子主演の『海女の戦慄』(57年)は、乳首は出さないが前田が気前よく脱ぎまくり、三ッ矢歌子、万里昌代ら海女ガールズたちの大挙出演も相まって、この時期の新東宝としては興行的にいい成績を残した。前田は本作で裸を卒業しようと決意していたが、次作『続若君漫遊記・金毘羅利生剣』(57年・加戸野五郎)で、再びセクシーポーズを強要されて拒否し、それが真実と誤解が交差しエスカレートして、結果、大蔵社長の逆鱗に触れて解雇されてしまう。これは“裾まくり事件”として三面記事の格好のネタとなった。志村は可愛がっていた前田の解雇に責任を感じてか、自らも新東宝を退社するという男気を見せた。

 

4・その後・・・

 

 コネのあった松竹系統の歌舞伎座映画で、三橋達也、杉田弘子主演の『無鉄砲一代』(58年)を撮るが、当初ヒロインに考えていた前田通子は大蔵側の強力な根回しでつぶされてしまった。映画も主演二人がミスキャストということもあり平凡な出来となってしまった。五社協定がまだまだ有効だった時代でもあり、前田は勿論のこと志村も映画界での仕事が出来なくなって行った。60年代に入り、台湾映画界から話があり、久しぶりに前田通子とのコンビで『女真珠王の挑戦』『悲恋』(以上63年)を撮るが、詳細は不明である。

 その後は国際放映に所属。当時ブームであった山田風太郎原作の『江戸忍法帖』(64年)全13話を監督。脚本は志村と新東宝仲間の内田弘三。前田通子も甲賀七忍の女忍者・葉月役で全話出演。前田の女忍者は最後まで生き残り続編も予定されていたようだが、主演の山城新伍が拳銃不法所持で捕まり放送はオクラとなった。66年になってようやく放映されたが、ブームはとっくに去っていた。映画への復帰も模索していたが、結局かなわず80年、66歳で死去した。早撮りと前田通子でしか語られないのは、彼の実力からしてはいかにも不憫であろう。

 

(フィルモグラフィ)

群狼(48年*デビュー作)、海のGメン 玄界灘の狼、肉体の白書、バナナ娘、黄金獣、摩天楼の怪人(以上50年)、月が出た出た、無宿猫(どらねこ)(以上51年)、私はシベリアの捕虜だった(阿部豊と共同監督)、貞操の街(以上52年)、色ごよみ 権九郎旅日記、姫君と浪人、薔薇と拳銃、すっとび千両旅(以上53年)、巌ちゃん先生行状記 処女合戦、嵐の青春、鞍馬天狗 疾風八百八町、東尋坊の鬼、照る日くもる日・前後篇(以上54年)、右門捕物帖 献上博多人形、旗本やくざ、海の小扇太、右門捕物帖 恐怖の十三夜、息子一人に嫁八人(以上55年)、君ひとすじに、社長三等兵、続君ひとすじに、女真珠王の復讐、君ひとすじに・完結篇、新妻鏡、軍神山本元帥と連合艦隊(以上56年)、海の三等兵、関八州大利根の対決、死刑囚の勝利、怒濤の兄弟、海女の戦慄(以上57年)、無鉄砲一代(58年)、女真珠王の挑戦、悲恋(63年*以上台湾スワン映画)

 

(協力)下村健