新映画原理主義・第7回「カリブ海のサイクロン~マリア・モンテス」

 

第一章 カリブ海からハリウッドへ

 

 マリア・モンテス、本名マリア・アフリカ・ヴィダル・サント・シラスは、1912年6月6日、ドミニカ共和国バラホナ生まれ。余談ながらバラホナにある国際空港は後に“マリア・モンテス国際空港”と名付けられた。父親はスペイン人でサンドミンゴスのスペイン名誉副領事であった。カナリア諸島で教育を受けた後、15歳でアイルランドへ渡る。そこで舞台の魅力に取り付かれ舞台女優としてデヴューし、いくつかの舞台に上がった。32年、20歳の時に裕福なアイルランド人ウィリアム・G・マクフィーターズと結婚した。だが結婚生活は長く続かず39年に離婚してしまう。同年ひとりで渡米して、ニューヨークで170cmの長身を生かしてモデル活動を行う。ほどなく娯楽の王様であった映画女優の道を志し、40年にユニヴァーサルのスクリーン・テストに合格した。同年、ジョニー・マック・ブラウン主演、レイ・テイラー監督の『地金都市のボス』で、脇役ながらクレジット4番目の大役を与えられて女優デビューを果たす。エキゾチックなルックスとちょっとセクシーな言葉のアクセントは、大いなる宣伝ポイントとなった。

 このエキゾチック系の女優ジャンルは、無声時代のセダ・バラに始まり、MGM美術監督の大御所セドリック・ギボンズ夫人に収まったドロレス・デル・リオ、そのライバルでジョニー・ワイズミュラーと結婚し、荒々しい性格から“メキシコの山猫”の異名を取ったルぺ・ヴェレス、パラマウントの『珍道中』シリーズでビング・クロスビーボブ・ホープとトリオを組んだドロシー・ラムーアと枚挙にいとまがない。

 

第二章 善隣外交政策

 

 時代は“ニューデール政策”で世界恐慌からアメリカ経済を救った第32代大統領フランクリン・D・ルーズベルトの治世であった。39年のアドルフ・ヒットラー総統率いるナチス・ドイツの電撃作戦によるヨーロッパ大戦の開戦により、ウィンストン・チャーチル首相のイギリス寄りの立場を取っていたルーズベルトは慎重な姿勢を崩さなかった。というのもヨーロッパでの開戦により、ヨーロッパ各国との経済的交流が滞ることとなり、ようやく回復した経済に大打撃を与え兼ねなかった。その代替として経済的発展の著しい南米諸国との絆を強めようとした。それは“善隣外交政策”と言われ強力な経済的な支えとなった。経済面ではハリウッドの映画産業も大きな役割を果たすことになった。40年以降、ラテンアメリカ諸国の女優や男優を多く起用した映画が多数製作されることになった。ルーズベルトの肝いりに対して、最初に名乗りを挙げたのは、20世紀フォックスの代表ダリル・F・ザナックであった。ザナックは頭に巨大なバナナの帽子を被って奇抜な歌と踊りを披露するブラジルの歌姫カルメンミランダを起用し、『バナナ・ムーヴィー』シリーズを連作して興行的ヒットを飛ばした。ラテンアメリカに対するステレオタイプのイメージは、このシリーズでほぼ確立したものと思われる。

 

第三章 カリブ海のサイクロン 

 

 マリア・モンテスも、このラテン・アメリカ・ブームの波に乗ったエキゾチック路線で売り出すこととなり、ジョン・ホール、サブウ、ターハン・ベイが共演者としてピックアップされた。その主演第一作が42年の『アラビアン・ナイト』(ジョン・ロウリンズ監督)であった。有名な「アラビアン・ナイト」の物語からキャラクターを借りてハリウッド風に自由に脚色したもので、当時としては煽情的な衣装をまとって踊るシェラザード役のモンテスはテクニカラーの画面によく映えた。次作『ホワイト・サヴェージ』(43年・アーサー・ルービン監督)でもジョン・ホール、サブウと共演。『アリババと四十人の盗賊』(44年・アーサー・ルービン監督)ではアリババ(ジョン・ホール)の恋人役でセクシーな肢体を披露した。彼女の人気は沸騰し“カリブ海のサイクロン”や“テクニカラーの女王”の呼称がつけられ、ユニヴァーサルのドル箱となった。その後も『コブラ・ウーマン』(44年・ロバート・シオドマク監督)、『山猫ジブシ―』(44年・ロイ・ウィリアム・ニール監督)とエキゾチズム路線を突き進む。父親を暗殺されたマリア・モンテスのエジプトの女王が砂漠の盗賊ジョン・ホールの力をかりて復讐を果たす『スーダンの砦』(45年・ジョン・ロウリンズ監督)は、名コンビ、ジョン・ホールとの最後の共演作となった。『タンジールの踊子』(46年・ジョージ・ワグナー監督)は、タンジールを舞台にしたスパイ・メロドラマ。モンテスの戦後第一作だが、従来のエキゾチック路線もさすがに陰りが見えて来た。『風雲児』(47年)はマルセル・オフュルス監督の渡米第一作で、ダグラス・フェアバンクス・ジュニアがオヤジばりのチャンバラ活劇をみせ、モンテスは彩り役に甘んじている。結局、ロッド・キャメロン共演の『モントレイの海賊』(47年・アルフレッド・L・ワーカー監督)が、最後のユニヴァーサル作品となった。

 

第四章 突然の死去

 

 この後は、セシル・B・デミル監督の大作『サムソンとデリラ』(49年)のデリラ役に応募するも落選するなどハリウッドでの行き場を失い、43年に二度目の結婚をしたジャン=ピエール・オーモンの祖国フランスへ渡った。この間に二児を設け、その内の1人が、後に女優となるテイナ・オーモンであった。またジャン・コクトー監督の代表作『オルフェ』(50年)でマリア・カザレスが扮した王女役のオーデイションも受けたようである。

 夫オーモンとは鴛鴦夫婦で、『マルセイユの一夜』(48年・フランソワ・ヴィリエ監督)、『魅惑の魔女』(49年・グレッグ・C・ダラス監督)、『海賊の復讐』(51年・プリモ・セグリオ監督)といったオーモン主演作でも夫婦共演をしている。ローマで撮影された『海賊の復讐』の後、51年9月7日、入浴中に心臓発作を起こしてバスタブで溺死してしまう。39歳という若さであった。8月に撮影された『海賊の復讐』では、撮影中に結婚8周年の祝いをしたばかりであった。夫オーモンの悲しみは勿論だが、当時5歳だった後のテイナ・オーモンの悲しみはいかばかりだったであろうか・・・。

 正直なところを言うならば、演技、踊り、歌に特出したわけでもなかったモンテスが、そのエキゾチックな美貌だけで短期間ながら人気スターに成り得たのは、前記したようにルーズベルトの”善隣外交政策”によるハリウッドのラテン・アメリカ諸国の大規模な取り込みがあったことは忘れてはならない。また少年の日、テレビ放映にて観た『アラビアン・ナイト』で、シェラザードに扮したマリア・モンテスのセクシーな踊りが、目に焼き付いて離れないのも紛れもない事実なのである。

 

(フィルモグラフィ)

地金都市のボス(*デヴュー作)、透明女性(以上40年)、幸運な悪魔、リオの夜、砂漠のライダー、ムーンライト・イン・ハワイ、タヒチの西、ボンベイ・クリッパー(以上41年)、マリー・ロジェの秘密、アラビアン・ナイト(以上42年)、ホワイト・サヴェージ(43年)、アリババと四十人の盗賊コブラ・ウーマン、フォロー・ザ・ボーイ、山猫ジプシー、バワリ―からブロードウェイへ(以上44年)、スーダンの砦(45年)、タンジールの踊子(46年)、風雲児、モントレイの海賊(以上47年)、マルセイユの一夜(48年)、魅惑の魔女、死の肖像(以上49年)、ヴェニスの泥棒(50年)、愛と血、ナポリを覆う影、海賊の復讐(*遺作)(以上51年)

(*未公開作は英語、仏語、伊語ともに、ほぼ直訳である)