新映画原理主義「第四回 ポスト渡辺邦男と言われた男~志村敏夫

 

志村敏夫(1914~1980)

 

1・脚本家修業時代

 

 1914年10月13日、静岡県島田市生まれ。34年日本大学映画化を卒業。生来の映画好きで、大学在学中から脚本を書き始めたという。日大在学中の36年に脚本「五々の春」が高田稔プロ製作、牛原虚彦監督で映画化された。その後、粗製乱造で鳴らしていた河合映画の脚本も書いた。だが技術面の未熟を痛感し基本から勉強すべく松竹蒲田に脚本研究生として入所する。師匠は松竹大船所属で小津安二郎監督『生まれてはみたけれど』(32年)や五所平之助監督『人生のお荷物』(35年)などで知られる伏見晁(ふしみあきら)だという。勉学途中に徴兵され、北支で書いた脚本が斎藤寅次郎監督により『ロッパの駄々ッ子父ちゃん』(40年)として東宝で映画化された。40年に除隊し、同年、斎藤寅次郎監督による『親子鯨』の脚本が認められて、東宝脚本部に所属。一方では監督業にも触手を伸ばし、斎藤寅次郎作品の脚本を書き助監督も勤める。45年4月に二度目の招集を受けるが8月15日に終戦。晴れて東宝に復帰するが、直ぐに東宝争議が勃発する。撮影所が労働組合という名の共産勢力跋扈の場となり、映画製作が困難となる。それを嫌った斎藤寅次郎と共に、47年に新設されたばかりの新東宝へ入社する。 

 

2・新東宝で監督デビュー

 

 新東宝ではハリウッドのプロデューサー・システムをいち早く取り入れて、外部からもプロデューサーを招聘した。志村と旧知の筈見恒夫も新しいプロデューサーとなり、48年志村の監督デビューとなる『群狼』をお膳立てした。ヤクザによる殺人を目撃した銀行員・佐分利信が、ヤクザの脅かしや息子の誘拐に苦しめられるが、警察や武闘派の弟・藤田進の協力でヤクザたちを一掃する。デビュー作とは思えぬキビキビとしてスピーディな演出は潜在能力の高さを感じさせた。海洋アクション『海のGメン 玄界灘の狼』(50年)や本格的なミステリー『黄金獣』(50年)で確実な腕前を見せた。一方では並木路子主演の歌謡映画『バナナ娘』(50年)、小林桂樹主演の人情コメディ『月が出た出た』(51年)、森繁久彌主演の時代劇コメディ『色ごよみ 権九郎旅日記』(53年)、香川京子主演の明朗時代劇『姫君と浪人』(53年)、田崎潤主演のコメディ・タッチの股旅もの『すっ飛び千両旅』(53年)では、師匠である斎藤寅次郎直伝のコメディ演出も無難にこなした。因みに石井輝男は、初チーフを含め4本もチーフを担当しており、アクションの処理や早撮りの方法など、よく語られる渡辺邦男より志村敏夫を参考にしているのではないかと思われる節がある。

 当時はタブーだったシベリア捕虜収容所の話を真正面から描いた『私はシベリアの捕虜だった』(52年)はさすがにメジャー会社では製作が困難だったため独立プロのシユウ・タグチ・プロでの製作となった。阿部豊との共同監督で、阿部はドラマ部分を志村はアクションなどの外撮りを主に担当したという。かなり問題作で出来も悪くなかったが、独立プロ作品だけに興行的には苦戦した。鶴田浩二もよる戦後初めての俳優プロたる新生プロ製作の『薔薇と拳銃』(53年)は鶴田主演、島崎雪子田崎潤力道山が共演する異色のアクションもの。東映の大泉スタジオで撮影された縁から東映で配給された。独立プロデューサー、中井金兵衛率いる中井プロ製作で沼田曜一主演の反共映画『嵐の青春』(54年)も監督したが、こちらは新東宝で配給された。

 こうした各所での活発な活動が認められたのか、時代劇の監督不足に悩む宝塚映画から引きがあり、54年から55年の約1年間だけ限定移籍する。それて入れ替わるように、並木鏡太郎も短期レンタル移籍している。宝塚映画では、嵐寛寿郎の十八番『鞍馬天狗 疾風八百八町』を皮切りに、アラカン主演の『照る日くもる日 前後篇』(54年)、アラカン十八番の『右門捕物帖 献上博多人形』(55年)、アラカン主演、山中貞雄原作の『旗本やくざ』(55年)、中村扇雀主演の『海の小扇太』(55年)、そしてアラカン主演の『右門捕物帖 恐怖の十三夜』(55年)を最後に新東宝に復帰した。因みに『海の小扇太』は、脚本の師匠である伏見晁が脚本を担当した。

 

3・前田通子との蜜月

 

 復帰作のコメディ『息子一人に嫁八人』(55年)では、面接時に気に入ったという新人前田通子に大きな役を与えた。二人の関係は以後、どんどん深くなって行った。56年には前田通子初主演となる『女真珠王の復讐』を撮る。これは「アナタハン島事件」をベースにしたミステリー仕立ての復讐譚だが、何と言っても話題になったのは前田通子の後ろ姿ながら全裸がロングの短時間ながら映し出されたことである。これは戦後のメジャー邦画会社では初のことで、エログロ新東宝の名を嫌がうえにも轟かせた。これは志村と前田の深い関係性があってのことであったと思われる。久保菜穂子、宇津井健主演のメロドラマ『君ひとすじに(3部作)』(56年)は大蔵体勢になって初の本格的メロドラマで、3部作を1年で撮り切るという志村の早撮りの技がひと際光った。『君ひとすじに・完結篇』と『新妻鏡』(56年)は同時にクランクインし、列車内の撮影では前車両と後ろ車両で2本の撮影が同時に行われたこともあるという。怒濤の早撮り撮影の後は、佐分利信を招いた戦争大作『軍神山本元帥と連合艦隊』(56年)を撮る。映画はヒットし翌年の超大作『明治天皇と日露大戦争』(渡辺邦男)への大いなる布石となった。撮影所長も兼ねていた渡辺邦男は、既に大蔵貢との関係に終止符を打つ覚悟をしており、『明治天皇~』を置き土産に新東宝を去り大映へ移籍した。後任の撮影所長候補には、ベテランの並木鏡太郎や中川信夫の名も挙がったが、両者とも任ではないと固辞。そこで早く安く仕上げヒットメーカーでもある志村敏夫が、次の撮影所長候補の最有力となっていた。松竹の若杉英二は天城竜太郎と改名して新東宝へ入社し、その第一回となる講談「天保水滸伝」をベースにした新東宝オールスター時代劇『関八州大利根の対決』(57年)を撮る。天城竜太郎が現代劇で主演した『死刑囚の勝利』(57)は、実質的には前田通子のストリップ&セクシーダンスが売りで、大蔵イズムを大いに鼓舞させた。さらに『女真珠王の復讐』のヒットにあやかった前田通子主演の『海女の戦慄』(57年)は、乳首は出さないが前田が気前よく脱ぎまくり、三ッ矢歌子、万里昌代ら海女ガールズたちの大挙出演も相まって、この時期の新東宝としては興行的にいい成績を残した。前田は本作で裸を卒業しようと決意していたが、次作『続若君漫遊記・金毘羅利生剣』(57年・加戸野五郎)で、再びセクシーポーズを強要されて拒否し、それが真実と誤解が交差しエスカレートして、結果、大蔵社長の逆鱗に触れて解雇されてしまう。これは“裾まくり事件”として三面記事の格好のネタとなった。志村は可愛がっていた前田の解雇に責任を感じてか、自らも新東宝を退社するという男気を見せた。

 

4・その後・・・

 

 コネのあった松竹系統の歌舞伎座映画で、三橋達也、杉田弘子主演の『無鉄砲一代』(58年)を撮るが、当初ヒロインに考えていた前田通子は大蔵側の強力な根回しでつぶされてしまった。映画も主演二人がミスキャストということもあり平凡な出来となってしまった。五社協定がまだまだ有効だった時代でもあり、前田は勿論のこと志村も映画界での仕事が出来なくなって行った。60年代に入り、台湾映画界から話があり、久しぶりに前田通子とのコンビで『女真珠王の挑戦』『悲恋』(以上63年)を撮るが、詳細は不明である。

 その後は国際放映に所属。当時ブームであった山田風太郎原作の『江戸忍法帖』(64年)全13話を監督。脚本は志村と新東宝仲間の内田弘三。前田通子も甲賀七忍の女忍者・葉月役で全話出演。前田の女忍者は最後まで生き残り続編も予定されていたようだが、主演の山城新伍が拳銃不法所持で捕まり放送はオクラとなった。66年になってようやく放映されたが、ブームはとっくに去っていた。映画への復帰も模索していたが、結局かなわず80年、66歳で死去した。早撮りと前田通子でしか語られないのは、彼の実力からしてはいかにも不憫であろう。

 

(フィルモグラフィ)

群狼(48年*デビュー作)、海のGメン 玄界灘の狼、肉体の白書、バナナ娘、黄金獣、摩天楼の怪人(以上50年)、月が出た出た、無宿猫(どらねこ)(以上51年)、私はシベリアの捕虜だった(阿部豊と共同監督)、貞操の街(以上52年)、色ごよみ 権九郎旅日記、姫君と浪人、薔薇と拳銃、すっとび千両旅(以上53年)、巌ちゃん先生行状記 処女合戦、嵐の青春、鞍馬天狗 疾風八百八町、東尋坊の鬼、照る日くもる日・前後篇(以上54年)、右門捕物帖 献上博多人形、旗本やくざ、海の小扇太、右門捕物帖 恐怖の十三夜、息子一人に嫁八人(以上55年)、君ひとすじに、社長三等兵、続君ひとすじに、女真珠王の復讐、君ひとすじに・完結篇、新妻鏡、軍神山本元帥と連合艦隊(以上56年)、海の三等兵、関八州大利根の対決、死刑囚の勝利、怒濤の兄弟、海女の戦慄(以上57年)、無鉄砲一代(58年)、女真珠王の挑戦、悲恋(63年*以上台湾スワン映画)

 

(協力)下村健