新映画原理主義 第三回「独立愚連隊プロデューサー~キング兄弟」

 

 30年代から50年代にかけては、ハリウッドの全盛期で世界中の映画興行を席捲し、まさに飛ぶ鳥落とす勢いであった。当時のメジャースタジオのビッグ5は、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)、パラマウント、ワーナーブラザーズ(WB)、20世紀フォックス(FOX)、RKOラジオ(RKO)で、その下のリトル3と言われたのがコロンビア、ユニヴァーサル、ユナイテッド・アーテイスツ(UA)である。ビッグ5の条件は、製作・配給・興行(上映)を一貫して行える、いわゆる“垂直統合構造”であることで、リトル3の場合は、そのどれかが欠けている。ビッグ5は自社直営の映画館網を持ち、出来不出来に関わらず自社の作品を上映する、いわゆるブロック・ブッキングの興行形態を取っていた。これだと独立系の制作会社による作品はメジャー映画網では上映させてもらえなかった。この垂直統合構造に最も尽力していたのが、パラマウントの創業者たるアドルフ・ズーカーであった。

 だがこれは独占禁止法触れるとして、38年に司法省によってメジャー5社に対して訴訟が起こされる。裁判は長引き、地裁、高裁を経て最高裁が差し戻して、戦後の48年に独占禁止法に触れるという決定が下された。これは通称“パラマウント訴訟”と言われる。この判決によりメジャー5社は直営劇場網を失い、A級作品とB級作品の組み合わせによるブロック・ブッキングが崩れ、劇場側が作品を自由に選べるフリー・ブッキングとなった。この結果、メジャー会社は1本立てによる大作主義に移行するようになり、併映のB級作品の制作が激減してしまう。劇場側はその穴埋めとなる独立製作者による生きのいいB級映画を欲するようになっていた。そしてパラマウント訴訟以降、そういった独立製作者によるB級映画が大手の劇場網でも徐々に上映されるようになった。キング兄弟も、そうした独立製作者であった。

 

キング兄弟前史

 

 キング兄弟は東欧系ユダヤ人移民の子で本名はコジンスキー。父親のジョセフ(50年死去)はニューヨークの果物商人で、妻サラとの間にフランク(1913~1989)、モーリス(1914~1977)、ハーマン(1916~1992)の3兄弟と2人の姉妹という5人の子供をもうけた。父親はほどなく酒の密輸、密売が本業となり、ニューヨーク東10番街で生活の基盤を築いた。一家は、やがてシカゴを経てロスへ移り住む。ティーンエージャーのフランクとモーリスはロスの街角で新聞売りや靴磨きを始める。商才に長けたモーリスは、やがて酒の密売にも手を染め大金を得て、14歳で6万ドルの倉庫を建設し、15歳でアパート数棟を所有するに至る。だが好事魔多し、29年の大恐慌で全財産を失う。それでも商魂逞しい兄弟は、タバコと菓子の卸売りから再出発を図る。

 数年後、ピンボール台のレンタル事業に参入しで成功を収める。やがてジュークボックスも含めて、ロスで1万9千台の遊戯道具を所有する帝国を築く。アルゼンチンから競走馬を輸入し競馬にも参入し、ここで競馬好きのハリウッドの映画人(ルイス・B・メイヤー、フランク・キャプラなど)と知り合うことになる。当時“サウンディーズ”と呼ばれる音楽をかけながら映画を観せる機械が流行の兆しを見せていた。キング兄弟は金の匂いを敏感に感じ取る。機械そのものを入手するのは容易だが、観せる映画をどうするかで悩んだ。弁護士の紹介で、ハリウッド・タイクーンのひとりたるセシル・B・デミルと会食する。だがデミルの古色蒼然たる考えにはついて行けず喧嘩別れ、さらにサウンディーズ事業に強力なライバルが出現するに及んで撤退を決意した。40年に兄弟と妹は、それぞれの事業での脱税で起訴され新規事業での巻き返しに迫られていた。

 

風雲児キング兄弟誕生

 

 兄弟は映画産業への参入を決意し、41年“キング・ブラザーズ・プロダクション”を設立した。第一作『Papper Bullets』(フィル・ローゼン)は、2万ドルの予算でタリスマンスタジオにて6日間で撮影。ジャック・ラルー主演のギャングもので、ブレイク前のアラン・ラッドが脇役で出演している。プロデューサーズ・リリーシング・コーポレーション(PRC)を通じて公開して、40万ドルの興行収入を得て、幸先のいいスタートを切ることが出来た。第二作『I Killed That Mon』(41・フィル・ローゼン)も2万ドルの予算で効率よく製作し、その後、長い付き合いとなるモノグラムを通じて公開され、これもヒットさせた。この時からコジンスキー家は姓を正式に“キング”と改めた。  

 45年、それまでの利益をつぎ込んだ製作費20万ドルの大作『犯罪王デリンジャー』(マック・セネック)が大ヒットし4百万ドルの興行収入を得る。本作の大ヒットにより、数あるポヴァティ・ロウの中でも一躍注目を集める。脚本は後に『折れた槍』(54・エドワード・ドミトリク)で、アカデミー原案賞を獲得し、『エル・シド』(61・アンソニー・マン)、『北京の55日』(63・ニコラス・レイ)、『バルジ大作戦』(65・ケン・アナキン)、『カスター将軍』(67・ロバート・シオドマク)など数々の大作の脚本家となるフィリップ・ヨーダン。彼は一方で仕事が困難となったハリウッド・テンのダグラス・トランボを兄弟に紹介している。ヨーダンは『狂熱の果て』(46・フランク・タトル)、『群盗の宿』(49・カート・ニューマン)、『秘密警察』(50・ボリス・イングスター)、『南部に轟く太鼓』(51・ウィリアム・キャメロン・メンジーズ)で脚本を書いた。デリンジャーを熱演したローレンス・ティアニーも、本作のヒットでちょいとしたスターとなる。この作品の大ファンたるクエンティン・タランティーノの長編第一作『レザボア・ドッグス』(92)で、ティアニーが暗黒街の大物役で出演しているのは明らかなオマージュだろう。因みに石井輝男監督と本作を観に行ったのだが「これから強盗に行くのに、いかにもの格好で横並びでダラダラ歩いてるのはドラマとしての緊張感が足りない」とおっしゃっておりました。私も本作は脚本と映像のコラボがチグハグなシーンが多々あり、何故に評価が高いのか疑問に思っている次第。

 

古典カルト映画『拳銃魔

 

 さて前出のパラマウント訴訟の判決により、キング兄弟製作のB級映画も大手の映画館網にかかるようになり、兄弟たちの鼻息も自然と荒くなって行った。『拳銃魔』(49・ジョセフ・H・ルイス)は、そんな兄弟のイケイケ感が良く出た作品で、ボニー&クライド風の若い男女(ジョン・ドール、ペギー・カミンズ)のナチュラル・ボーン・キラーぶりを描いた衝撃作で、大ヒットを記録した。だが大ヒットと言っても、まだまだメジャー映画のように目抜き通りの大劇場での公開ではなく、日本でいうところの二番館、三番館もしくは場末の劇場での公開でそれほど莫大な興行利益を得たわけではなかった。それにプロダクションコードとの戦いがつきまとい、ブリーンオフィスとのせめぎ合いは興行に影響を与えた。本作の脚本はマッキンレー・カンターとミラード・カウフマンの連名になっているが、カウフマンはフロントで実際はハリウッド・テン裁判で収監され仕事を干されていたダルトン・トランボが書いたというのは、後年立証されている。『拳銃魔』は、今ではB級映画のクラシックとなっておりジャン=リュック・ゴダールなど同業者の信者も少なくなく、キング兄弟製作映画の頂点とも称えられる。

 映画が好調なキング兄弟は、ビバリーヒルズに移り住むようになり、配給を委託するモノグラムの株を4/1所有するに至った。長男フランクはアメリカンフットボールをやっていた巨漢でビジネスに才覚があり、次男モーリスはボクシングをやっており、アイデアマンでプロデューサー向き、三男ハーマンは末っ子らしく人懐こい性格で兄弟の調整役といったところか。全体を仕切っていたのは母サラで「最低の製作費で常に売れる映画を作る」「世界中の人が観るような映画を作る」と豪語。この辺は後発のロジャー・コーマンも大いに見習って実践したのではないか。

 

日米合作映画の顛末

 

 母サラの「世界中の人が観る映画を作る」の実践なのか、当時アジア最大の映画市場となっていた日本に、54年に次男モーリスが乗り込む。キング・プロとの日米合作映画の話で、日本側の映画会社は服部知祥社長時代の新東宝。何故、新東宝が選ばれたのかは不明だが、52年の講和条約締結により日本が正式に世界復帰し、米国との合作の機運が高まっていた時期であったと言えよう。ネタは52年に発刊されたパール・バックの「日陰の花」で、脚本はキング兄弟ご用達のフィリップ・ヨーダンパール・バックと言えば代表作「大地」が37年映画化(シドニー・フランクリン)が映画化されアカデミー賞受賞など高い評価を受けたという実績がある。米国人男性と日本人女性によるラブストーリーをカラーで映画化という中々の内容。どこまで具体的な話になったかは分からないが、モーリスは他の兄弟たちと相談するために一旦帰国する。その後は、パール・バックの原作をチャラにして、べティ・グレイブル、ハリー・ジェームズ主演と路線変更。グレイブルとジェームズは当時夫婦だったので、話題性先行というところか。ともあれこれによってグーンと現実性が薄くなり、新東宝自体も経営難が深刻となり、54年12月には新社長の大蔵貢が乗り込み、緊縮財政により合作映画どころではなくなってしまった。

 合作映画消滅以降は日本との縁が切れたと思われたが、独立プロのジュエル・エンタープライズ東宝から直接買い付けUSバージョンとして全米公開した『怪獣王ゴジラ』(56・テリー・O・モース、本多猪四郎)が200万ドルの興行収入を挙げたと知り、早速、東宝と交渉して『空の大怪獣ラドン』(56・本多猪四郎)を買い付けUSバージョンを公開して収益を得た。この実績を基に英国で着ぐるみ怪獣もの『怪獣ゴルゴ』(60・ユージン・ルーリー)を製作。劇中に『~ラドン』のフィルムが流用されているのもキング兄弟らしい。日活唯一の怪獣映画『大怪獣ガッパ』(67・野口晴康)は、怪獣の親子愛という『~ゴルゴ』のプロットをまんまパクっておりこちらも商才に長けている。

 

『黒い牡牛』とダルトン・トランボ

 

 キング兄弟にとって、唯一のアカデミー賞受賞作(アカデミー原作賞)である『黒い牡牛』(56・アーヴィング・ラパー)は自慢の種であり、母サラの最高のお気に入り映画であった。母を亡くしたばかりの貧しいメキシコ少年レオナルド(マイケル・レイ)は、同じく母牛を亡くした闘牛用の子牛イターノと強い絆で結ばれる。クライマックスで闘牛場の大観衆による「インドゥルド(闘牛用語で恩赦の意)!」の大合唱が感動を呼ぶ。本作はアカデミー賞会員にも感動を呼びオスカーを与えたのだが、このロバート・リッチなる人間はおらず(キング兄弟の親類の名前)、ダルトン・トランボの変名であったのは後に名誉回復される。この辺のエピソードは映画『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(15・ジェイ・ローチ)がうまく描いている。トランボをブライアン・クランストン、キング兄弟の長男、フランク・キングをジョン・グッドマンが演じてそれぞれ好演している。

 赤狩りによって仕事を干された映画人たちを積極的に雇用したのは、優れた才能を安く使える、というキング兄弟ならではの打算的考えとも言えるが、優れた才能、というのがミソで、この辺にキング兄弟の映画的審美眼が働いていたと思われる。その辺は、東映今井正家城巳代治といった共産党シンパを積極雇用してヒットに結び付けたマキノ光雄と相通じるものがある。

 

消えゆくキング兄弟

 

 60年代、トランボの正式復帰により赤狩りの呪縛は解けていたものの、ジョン・ガーフィールド主演『その男を逃すな』(51)など優れた作品で知られ赤狩りで米国で仕事を干されていたジョン・ベリーを久々に監督に起用したクリント・ウォーカー主演のインドもの『虎の谷』(66)は、その後兄弟には珍しいTVシリーズも製作された。

 因みに赤狩りで干された監督を描いた『真実の瞬間(とき)』(91・アーウィン・ウィンクラ―)で、ロバート・デ・ニーロ扮する監督のモデルはジョン・ベリーと言われている。ウィンクラ―製作の『ラウンド・ミッドナイト』(86・ベルナルド・タベルニエ)に、ベリーがレストランオーナー役で出演しているのもうなずける。ベリーは転向したエドワード・ドミトリクによって、反米活動委員会(HUAC)において共産党シンパとして名前を挙げられ、追放の憂き目にあっている。ドミトリクは、この証言によってハリウッド復帰を果たすことが出来、その第一作がキング兄弟製作による『カリブの反乱』(52)であった。この橋渡しをしたのが、またまたフィリップ・ヨーダンであった。

 60年代に入り、メジャースタジオの衰退と新しい独立プロの乱立により、キング兄弟の映画も斬新性が薄れ中々ヒットに結び付かなくなっていた。その辺はロバート・テイラー主演の西部劇『ガンファイターが帰って来た』(66・ジェームズ・二―ルソン)のキャスティングや内容の時代錯誤ぶりを観ると明らかである。結局、グレン・フォード主演のこれまた凡庸な西部劇『夕陽の対決』(69・リー・H・カッツィン)が最後の作品となり、キングブラザース・プロダクションが終焉を迎えたのも時代の趨勢なのかもしれない。