新映画原理主義 第三回「独立愚連隊プロデューサー~キング兄弟」

 

 30年代から50年代にかけては、ハリウッドの全盛期で世界中の映画興行を席捲し、まさに飛ぶ鳥落とす勢いであった。当時のメジャースタジオのビッグ5は、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)、パラマウント、ワーナーブラザーズ(WB)、20世紀フォックス(FOX)、RKOラジオ(RKO)で、その下のリトル3と言われたのがコロンビア、ユニヴァーサル、ユナイテッド・アーテイスツ(UA)である。ビッグ5の条件は、製作・配給・興行(上映)を一貫して行える、いわゆる“垂直統合構造”であることで、リトル3の場合は、そのどれかが欠けている。ビッグ5は自社直営の映画館網を持ち、出来不出来に関わらず自社の作品を上映する、いわゆるブロック・ブッキングの興行形態を取っていた。これだと独立系の制作会社による作品はメジャー映画網では上映させてもらえなかった。この垂直統合構造に最も尽力していたのが、パラマウントの創業者たるアドルフ・ズーカーであった。

 だがこれは独占禁止法触れるとして、38年に司法省によってメジャー5社に対して訴訟が起こされる。裁判は長引き、地裁、高裁を経て最高裁が差し戻して、戦後の48年に独占禁止法に触れるという決定が下された。これは通称“パラマウント訴訟”と言われる。この判決によりメジャー5社は直営劇場網を失い、A級作品とB級作品の組み合わせによるブロック・ブッキングが崩れ、劇場側が作品を自由に選べるフリー・ブッキングとなった。この結果、メジャー会社は1本立てによる大作主義に移行するようになり、併映のB級作品の制作が激減してしまう。劇場側はその穴埋めとなる独立製作者による生きのいいB級映画を欲するようになっていた。そしてパラマウント訴訟以降、そういった独立製作者によるB級映画が大手の劇場網でも徐々に上映されるようになった。キング兄弟も、そうした独立製作者であった。

 

キング兄弟前史

 

 キング兄弟は東欧系ユダヤ人移民の子で本名はコジンスキー。父親のジョセフ(50年死去)はニューヨークの果物商人で、妻サラとの間にフランク(1913~1989)、モーリス(1914~1977)、ハーマン(1916~1992)の3兄弟と2人の姉妹という5人の子供をもうけた。父親はほどなく酒の密輸、密売が本業となり、ニューヨーク東10番街で生活の基盤を築いた。一家は、やがてシカゴを経てロスへ移り住む。ティーンエージャーのフランクとモーリスはロスの街角で新聞売りや靴磨きを始める。商才に長けたモーリスは、やがて酒の密売にも手を染め大金を得て、14歳で6万ドルの倉庫を建設し、15歳でアパート数棟を所有するに至る。だが好事魔多し、29年の大恐慌で全財産を失う。それでも商魂逞しい兄弟は、タバコと菓子の卸売りから再出発を図る。

 数年後、ピンボール台のレンタル事業に参入しで成功を収める。やがてジュークボックスも含めて、ロスで1万9千台の遊戯道具を所有する帝国を築く。アルゼンチンから競走馬を輸入し競馬にも参入し、ここで競馬好きのハリウッドの映画人(ルイス・B・メイヤー、フランク・キャプラなど)と知り合うことになる。当時“サウンディーズ”と呼ばれる音楽をかけながら映画を観せる機械が流行の兆しを見せていた。キング兄弟は金の匂いを敏感に感じ取る。機械そのものを入手するのは容易だが、観せる映画をどうするかで悩んだ。弁護士の紹介で、ハリウッド・タイクーンのひとりたるセシル・B・デミルと会食する。だがデミルの古色蒼然たる考えにはついて行けず喧嘩別れ、さらにサウンディーズ事業に強力なライバルが出現するに及んで撤退を決意した。40年に兄弟と妹は、それぞれの事業での脱税で起訴され新規事業での巻き返しに迫られていた。

 

風雲児キング兄弟誕生

 

 兄弟は映画産業への参入を決意し、41年“キング・ブラザーズ・プロダクション”を設立した。第一作『Papper Bullets』(フィル・ローゼン)は、2万ドルの予算でタリスマンスタジオにて6日間で撮影。ジャック・ラルー主演のギャングもので、ブレイク前のアラン・ラッドが脇役で出演している。プロデューサーズ・リリーシング・コーポレーション(PRC)を通じて公開して、40万ドルの興行収入を得て、幸先のいいスタートを切ることが出来た。第二作『I Killed That Mon』(41・フィル・ローゼン)も2万ドルの予算で効率よく製作し、その後、長い付き合いとなるモノグラムを通じて公開され、これもヒットさせた。この時からコジンスキー家は姓を正式に“キング”と改めた。  

 45年、それまでの利益をつぎ込んだ製作費20万ドルの大作『犯罪王デリンジャー』(マック・セネック)が大ヒットし4百万ドルの興行収入を得る。本作の大ヒットにより、数あるポヴァティ・ロウの中でも一躍注目を集める。脚本は後に『折れた槍』(54・エドワード・ドミトリク)で、アカデミー原案賞を獲得し、『エル・シド』(61・アンソニー・マン)、『北京の55日』(63・ニコラス・レイ)、『バルジ大作戦』(65・ケン・アナキン)、『カスター将軍』(67・ロバート・シオドマク)など数々の大作の脚本家となるフィリップ・ヨーダン。彼は一方で仕事が困難となったハリウッド・テンのダグラス・トランボを兄弟に紹介している。ヨーダンは『狂熱の果て』(46・フランク・タトル)、『群盗の宿』(49・カート・ニューマン)、『秘密警察』(50・ボリス・イングスター)、『南部に轟く太鼓』(51・ウィリアム・キャメロン・メンジーズ)で脚本を書いた。デリンジャーを熱演したローレンス・ティアニーも、本作のヒットでちょいとしたスターとなる。この作品の大ファンたるクエンティン・タランティーノの長編第一作『レザボア・ドッグス』(92)で、ティアニーが暗黒街の大物役で出演しているのは明らかなオマージュだろう。因みに石井輝男監督と本作を観に行ったのだが「これから強盗に行くのに、いかにもの格好で横並びでダラダラ歩いてるのはドラマとしての緊張感が足りない」とおっしゃっておりました。私も本作は脚本と映像のコラボがチグハグなシーンが多々あり、何故に評価が高いのか疑問に思っている次第。

 

古典カルト映画『拳銃魔

 

 さて前出のパラマウント訴訟の判決により、キング兄弟製作のB級映画も大手の映画館網にかかるようになり、兄弟たちの鼻息も自然と荒くなって行った。『拳銃魔』(49・ジョセフ・H・ルイス)は、そんな兄弟のイケイケ感が良く出た作品で、ボニー&クライド風の若い男女(ジョン・ドール、ペギー・カミンズ)のナチュラル・ボーン・キラーぶりを描いた衝撃作で、大ヒットを記録した。だが大ヒットと言っても、まだまだメジャー映画のように目抜き通りの大劇場での公開ではなく、日本でいうところの二番館、三番館もしくは場末の劇場での公開でそれほど莫大な興行利益を得たわけではなかった。それにプロダクションコードとの戦いがつきまとい、ブリーンオフィスとのせめぎ合いは興行に影響を与えた。本作の脚本はマッキンレー・カンターとミラード・カウフマンの連名になっているが、カウフマンはフロントで実際はハリウッド・テン裁判で収監され仕事を干されていたダルトン・トランボが書いたというのは、後年立証されている。『拳銃魔』は、今ではB級映画のクラシックとなっておりジャン=リュック・ゴダールなど同業者の信者も少なくなく、キング兄弟製作映画の頂点とも称えられる。

 映画が好調なキング兄弟は、ビバリーヒルズに移り住むようになり、配給を委託するモノグラムの株を4/1所有するに至った。長男フランクはアメリカンフットボールをやっていた巨漢でビジネスに才覚があり、次男モーリスはボクシングをやっており、アイデアマンでプロデューサー向き、三男ハーマンは末っ子らしく人懐こい性格で兄弟の調整役といったところか。全体を仕切っていたのは母サラで「最低の製作費で常に売れる映画を作る」「世界中の人が観るような映画を作る」と豪語。この辺は後発のロジャー・コーマンも大いに見習って実践したのではないか。

 

日米合作映画の顛末

 

 母サラの「世界中の人が観る映画を作る」の実践なのか、当時アジア最大の映画市場となっていた日本に、54年に次男モーリスが乗り込む。キング・プロとの日米合作映画の話で、日本側の映画会社は服部知祥社長時代の新東宝。何故、新東宝が選ばれたのかは不明だが、52年の講和条約締結により日本が正式に世界復帰し、米国との合作の機運が高まっていた時期であったと言えよう。ネタは52年に発刊されたパール・バックの「日陰の花」で、脚本はキング兄弟ご用達のフィリップ・ヨーダンパール・バックと言えば代表作「大地」が37年映画化(シドニー・フランクリン)が映画化されアカデミー賞受賞など高い評価を受けたという実績がある。米国人男性と日本人女性によるラブストーリーをカラーで映画化という中々の内容。どこまで具体的な話になったかは分からないが、モーリスは他の兄弟たちと相談するために一旦帰国する。その後は、パール・バックの原作をチャラにして、べティ・グレイブル、ハリー・ジェームズ主演と路線変更。グレイブルとジェームズは当時夫婦だったので、話題性先行というところか。ともあれこれによってグーンと現実性が薄くなり、新東宝自体も経営難が深刻となり、54年12月には新社長の大蔵貢が乗り込み、緊縮財政により合作映画どころではなくなってしまった。

 合作映画消滅以降は日本との縁が切れたと思われたが、独立プロのジュエル・エンタープライズ東宝から直接買い付けUSバージョンとして全米公開した『怪獣王ゴジラ』(56・テリー・O・モース、本多猪四郎)が200万ドルの興行収入を挙げたと知り、早速、東宝と交渉して『空の大怪獣ラドン』(56・本多猪四郎)を買い付けUSバージョンを公開して収益を得た。この実績を基に英国で着ぐるみ怪獣もの『怪獣ゴルゴ』(60・ユージン・ルーリー)を製作。劇中に『~ラドン』のフィルムが流用されているのもキング兄弟らしい。日活唯一の怪獣映画『大怪獣ガッパ』(67・野口晴康)は、怪獣の親子愛という『~ゴルゴ』のプロットをまんまパクっておりこちらも商才に長けている。

 

『黒い牡牛』とダルトン・トランボ

 

 キング兄弟にとって、唯一のアカデミー賞受賞作(アカデミー原作賞)である『黒い牡牛』(56・アーヴィング・ラパー)は自慢の種であり、母サラの最高のお気に入り映画であった。母を亡くしたばかりの貧しいメキシコ少年レオナルド(マイケル・レイ)は、同じく母牛を亡くした闘牛用の子牛イターノと強い絆で結ばれる。クライマックスで闘牛場の大観衆による「インドゥルド(闘牛用語で恩赦の意)!」の大合唱が感動を呼ぶ。本作はアカデミー賞会員にも感動を呼びオスカーを与えたのだが、このロバート・リッチなる人間はおらず(キング兄弟の親類の名前)、ダルトン・トランボの変名であったのは後に名誉回復される。この辺のエピソードは映画『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(15・ジェイ・ローチ)がうまく描いている。トランボをブライアン・クランストン、キング兄弟の長男、フランク・キングをジョン・グッドマンが演じてそれぞれ好演している。

 赤狩りによって仕事を干された映画人たちを積極的に雇用したのは、優れた才能を安く使える、というキング兄弟ならではの打算的考えとも言えるが、優れた才能、というのがミソで、この辺にキング兄弟の映画的審美眼が働いていたと思われる。その辺は、東映今井正家城巳代治といった共産党シンパを積極雇用してヒットに結び付けたマキノ光雄と相通じるものがある。

 

消えゆくキング兄弟

 

 60年代、トランボの正式復帰により赤狩りの呪縛は解けていたものの、ジョン・ガーフィールド主演『その男を逃すな』(51)など優れた作品で知られ赤狩りで米国で仕事を干されていたジョン・ベリーを久々に監督に起用したクリント・ウォーカー主演のインドもの『虎の谷』(66)は、その後兄弟には珍しいTVシリーズも製作された。

 因みに赤狩りで干された監督を描いた『真実の瞬間(とき)』(91・アーウィン・ウィンクラ―)で、ロバート・デ・ニーロ扮する監督のモデルはジョン・ベリーと言われている。ウィンクラ―製作の『ラウンド・ミッドナイト』(86・ベルナルド・タベルニエ)に、ベリーがレストランオーナー役で出演しているのもうなずける。ベリーは転向したエドワード・ドミトリクによって、反米活動委員会(HUAC)において共産党シンパとして名前を挙げられ、追放の憂き目にあっている。ドミトリクは、この証言によってハリウッド復帰を果たすことが出来、その第一作がキング兄弟製作による『カリブの反乱』(52)であった。この橋渡しをしたのが、またまたフィリップ・ヨーダンであった。

 60年代に入り、メジャースタジオの衰退と新しい独立プロの乱立により、キング兄弟の映画も斬新性が薄れ中々ヒットに結び付かなくなっていた。その辺はロバート・テイラー主演の西部劇『ガンファイターが帰って来た』(66・ジェームズ・二―ルソン)のキャスティングや内容の時代錯誤ぶりを観ると明らかである。結局、グレン・フォード主演のこれまた凡庸な西部劇『夕陽の対決』(69・リー・H・カッツィン)が最後の作品となり、キングブラザース・プロダクションが終焉を迎えたのも時代の趨勢なのかもしれない。

新映画原理主義  第2回「知られざる巨匠~ロマン・ヴィニョーリ・バレット」

 

第一章 ウルグアイからアルゼンチンへ

 

ロマン・ヴィニョーリ・バレット(1914~1970)

 両親はウルグアイ系アルゼンチン人で、ウルグアイモンテビデオで生を受ける。教育熱心な両親の元、10代の頃からウルグアイの音楽・演劇・ラジオの国立組織であるSODPEに参加する。才能はすぐ開花し20代前半から主席舞台監督となる。エーリッヒ・ライバーやアルトゥーロ・トスカニー二など伝説的な指揮者や、ルイ・ジュ―ヴェなどの演劇界の巨匠と共演した。非常に教養に富んだ彼は、劇作家でもありラテン語・仏語の翻訳者でもあった。マリア・ベセイロと結婚し、ダニエラとラフェエルという二人の息子と、アナ・マリアという娘に恵まれる。文化人としてウルグアイで確固たる地位を築くが、46年にアルゼンチンの新興映画会社に招聘され、昔から興味を持っていた映画に参入することを決意して、家族と共にアルゼンチンのブエノスアイレスに移住する。ウルグアイは南米の大国ブラジルとアルゼンチンと国境を接する小国のため、映画は早くに伝わっていたが、両大国の映画産業には抗しきれずに、自国の映画製作はあまり盛んではなかったようである。そのため、バレットも自国ではなく、戦後製作本数が飛躍的に増えたアルゼンチンの映画界に、自身の可能性を賭けたと思われる。

 47年にアルゼンチンの人気若手女優イエヤ・デュシェル主演の青春もの『リトルスター』で監督デビューを果たす。デビュー作はまずまずの好評で同じ女優主演で、『コリエンデス 夢の通り』(49)を撮る。後にイザベラ・サルリとのコンビでアルゼンチンポルノで世界的ヒットを飛ばした俳優時代のアルマンド・ボー主演のメロドラマ『額の汗で』(49)、コメディ『ほとんど陽気な未亡人』(50)、実在のF1ドライバーを描いた『「悪魔の手がかり ファンジオ」(50)、メロドラマ『月のそばの通り』(51)とコンスタントに監督をこなして手堅い仕事ぶりをみせて腕を磨いて行った。

 

第二章 代表作『野獣死すべし』と『黒い吸血鬼』

 

 そして52年の『野獣死すべし』は、彼の最初の代表作となった。英国人ニコラス・ブレイクが38年に発表したハードボイルド小説の最初の映画化である。ニコラス・ブレイクは詩人でもあるセシル・デイ=ルイスペンネームで、名優ダニエル・デイ=ルイスの父親である。映画化に際してシンプルに脚色し直され、最愛の息子のひき逃げ犯(ギレルモ・バッタリア)を解明しその懐に潜入し、遂には復讐を遂げる父親(ナルシソ・イバ二エス・メンタ)の心情がダイレクトに伝わって来る内容になっている。ラスト、愛情を感じ始めていたひき逃げ犯の義理の息子に心情を残しつつ、ヨットで死出の旅に出る主人公の姿には、こみ上げてくるものがあった。ブレイクの原作はTVでは何度か映像化されているが、二度目の映画化はフランスでクロード・シャブロル監督による『野獣死すべし』(69)。これも切り口は異なるがシャブロルらしい真綿で首を絞めるようなヒリヒリした描写が見ものであった。

 音楽もの『これが私の人生です』(52)、コメディ『猫を連れた少女』(53)を挟んで、彼の最高傑作『黒い吸血鬼』(53)を発表する。ブエノスアイレスで思春期の少女ばかりを狙った連続殺人犯の男(ナタン・ピンソン)の裁判が開廷中。そこからフラッシュバックで3つの異なる視点が交差する。検察官バーナード博士の公式捜査と車椅子の妻の介護。2つ目は殺人鬼である英語教師テオドロ・ウルバーの生涯を通じて女性に見下され続け醜く屈折した性格による犯行。3つ目はマリア・カイテル、芸名リタというナイトクラブの歌手の混乱した私生活。この3つの視点が、終盤には一緒になってクライマックスを迎えるという凝った構成となっている。マリアが半地下になっているナイトクラブの小窓から、犯人テオドロを目撃してしまう構図とカッテイングの冴えや、少女をエレベーター出口で待ち伏せて殺害するシーンの押さえた描写、そしてクライマックスにおける地下水道での犯人を追い詰めるホームレスたちとの光と影、そして下水道とのゾクゾクさせるコラボレーションと見どころが満載している。ホームレスによる犯人の裁判シーンはないが、ローレが口笛で吹いていたエドヴァルト・グリーグ作曲の「山の王の広間」が使われるなど、ほぼ元版『M』(31・フリッツ・ラング)に沿った内容なので、バレットの並々ならぬ力量が嫌がうえにも伝わって来る。犯人を演じるナタン・ビンソンも、ピーター・ローレに負けず劣らずの適役ぶりであった。本作に先立つ51年にジョセフ・ロージー監督による『M』も製作され、53年の赤狩りによる英国亡命前ながら、ロージーの当時の屈折した心情が強く影を落としている異色作となっている。

 

第三章 知られざる巨匠?

 

 その後は、ファミリー『おじいちゃん』(54)、ドラマ『石の地平線』(56)、コメディ『ヴァージンマン』(56)、スリラー『地獄のルポルタージュ』(59)、ミュージカル『花のパーゴラ』(65)とあらゆるジャンルをこなして精力的に活動する。『紙の船』(63)は『汚れなき悪戯』(55・ラディスラオ・ヴァホダ)で知られるパブリート・カルヴォ最後の出演作として話題になった。ただ『野獣死すべし』や『黒い吸血鬼』に匹敵するような代表作が生まれなかったのが惜しまれる。彼の晩年のインタビューによると「演劇こそ私の本当の歓びであった。」と語っているように、生涯を通じて舞台監督として働き続けて成功を収めたのが、正当な評価を得られなかった映画監督よりも誇りだったのかもしれない。晩年はテレビドラマにも関わり、最後の演出はテレビドラマであった。

 娯楽映画畑ということもありレオポルド・トーレ・二ルソンやフェルナンド・E・ソラナスのようなアルゼンチン映画界の巨匠としての評価は受けていないが、少なくとも『野獣死すべし』と『黒い吸血鬼』を、高いレベルの娯楽映画として作り上げた演出力は端倪すべからざるものがある。日本だと石井輝男、米国だとアンソニー・マン、仏国だとアンリ・ヴェルヌイユ、英国だとJ・リー・トンプソン、韓国だと申相玉あたりに匹敵するのではないだろうか。そういう意味でも巨匠というよりも、鬼才と称した方がふさわしく思える。

 

(フィルモグラフィ*全作本邦未公開ゆえ邦題はスペイン語からの直訳)

リトルスター(47*デヴュー作)、コリエンデス 夢の通り、額の汗で(以上49)、ほとんど陽気な未亡人、悪魔のてがかり ファンジオ(以上50)、月のそばの通り(51)、野獣死すべし、これが私の人生です(以上52)、猫をつれた少女、黒い吸血鬼(以上53)、おじいちゃん(54)、少年ヴィオラナンモレウ(55)、ヴァージンマン、石の地平線(以上56)、傀儡(57)、異星人の神々、女性ペニー(以上58)、地獄のルポルタージュ、神々のお金(以上59)、牝馬、一年中クリスマス(以上60)、おやすみ、愛する人よ(61)、紙の船、ファルコン一家(以上63)、花のパーゴラ、殺人命令(以上65)、ヴィラデリシア、駐車場、BGM(66*遺作)

新映画原理主義第一回「マイナー映画会社研究~モノグラム映画」

 

 モノグラム・ピクチャーズ・コーポレーション(Monogram Pictures Corporation)は、ライアート・スタジオ(後にライトーン・プロダクション)のW・レイ・ジョンストンと、ソノアート=ワールドワイド・ピクチャーズのトリム・カーによって1931年に設立された。経営全般はジョンストン、製作はカーが主に担当した。アクション、メロドラマ、コメディ、ミステリーなど様々なジャンルを網羅したB級映画の製作に特化し、早くから全米配給システムを確立した。初期のスターは、無声時代からの中堅俳優であるハーバート・ローリンソン、ウィリアム・コリア・シニアなど。若手ではレイ・ウォーカー、ウォーレス・フォード、ウィリアム・キャグニー、チャールズ・スターレットなどを起用した。この頃の人気ジャンルは西部劇で、脚本家・監督のロバート・N・ブラッドベリは息子ボブ・スティール(本名ロバート・A・ブラッドベリ)や、主演に抜擢された大作西部劇『ビッグトレイル』(30・ラオール・ウォルシュ)の大コケによりB級西部劇に出演せざる得なくなったジョン・ウェインを主演にして初期B級西部劇を多数監督した。

 35年、ジョンストンとカーは、コンソリデーテッド・フィルムインダストリーズのハーバート・J・イエーツに口説かれ、6つのポヴァティ・ロウ映画(低予算の独立系スタジオによる映画)のスタジオ連合として、リパブリック・ピクチャーズの設立に参加した。これは本陣たるリパブリックのもと、各スタジオの特色を生かした製作と配給を行った。モノグラム以下、マスコット・ピクチャーズ、リバティ・フィルムズ(*戦中にフランク・キャプラウィリアム・ワイラー、ジョージ・スティーヴンスが設立し『素晴らしき哉、人生』(46)などを製作したリバティ・プロとは別物)、マジェスティック・フィルムズ、チェスター・フィールド・モーションピクチャーズ、インヴィンシブル・ピクチャーズが参加した。最初は順調そうにみえたが、個性の強い独立スタジオの経営者たちとは次第に軋轢が生じるようになり、ジョンストンとカーもイエーツと対立して脱退する。ジョンストンはユニヴァーサル映画へ移り、一時休養していたカーは37年、モノグラムを復活させる。

 復活後も多ジャンル、低予算という初期のモノグラム・スタイルを踏襲した。ベラ・ルゴシは、40年代を通じて『ブードゥーマン』(44・ウィリアム・ボーダイン)など全9作に主役もしくは準主役で出演し、30年代に劣らぬ活躍を見せた。子役出身のフランキー・ダロは、30年代後期にモノグラムに入社し、50年まで小柄な体格を生かしたヤングスターとして会社に貢献した。黒人コメディアンのマンタン・モアランドはダロと多く共演し、49年までモノグラムのドル箱コンビとなった。メイ・ジョーンズとジャッキー・モランは、家庭的なロマンス・シリーズで人気を得て、その後ダロのシリーズにも参加した。辣腕プロデデューサーのサム・カッツマンによるストリート・ギャングもののシリーズ『イーストサイド・キッズ』は、社会派ギャングもの『デッド・エンド』(37・ウィリアム・ワイラー)に出演し人気の出た不良グループを主人公にした『デッド・エンズ・キッズ』シリーズの模倣だったがヒット。本家よりボビー・ジョーダンとレオ・ゴーシーを引き抜き契約した。その後すぐにハンツ・ホール、ガブリエル・デルとも契約する。『イーストサイド・キッズ』シリーズは、40年から45年にかけて製作された。その後、レオ・ゴーシーが主演格となり『バワリ―・ボーイズ』シリーズとなり52年まで続いた。12年間で48タイトルが製作されて、ゴーシーは、ハリウッドにおける年間ベースで最も高級を取るスターとなる。その他のヒットシリーズは、『チャーリー・チャン』『シスコ・キッド』『ジョー・パルーカ』シリーズで、これらは他のスタジオで放棄されたものをモノグラムによって復活させたものであった。一方、失敗例としてはコミック原作の『ザ・シャドウ』、ターザン映画のボーイ役ジョニー・シェフィールド主演による『ジャングル・ジム』『ボンバ』、レイモンド・ウォルバーン、ウォルター・キャレット主演のコメディ『ヘンリー』シリーズなどがある。

 多彩なジャンルの中でも一番シリーズものが製作されたのは西部劇で、ビル・コーディ、ボブ・スティール、ジョン・ウェイン、トム・キーン、ティム・マッコイ、テックス・リッター、ジャック・ランドルフが主演し、ユニヴァーサルがジョニー・マック・ブラウンとの契約を解消すると契約し52年まで活躍した。やがて単独ではなくベテランのサドル仲間を加えたトリオ形式にする。バック・ジョーンズ、ティム・マッコイ、レイモンド・ハットンは、ラフ・ライダーズ。レイ“クラッシュ”コリガン、ジョン“ダスティ”キング、マックス・ターヒューンは、レンジ・バスターズ、ケン・メイナード、フート・ギブソン、ボブ・スティールは、トレイル・ブレイザーズなど。

 モノグラム映画は、プレストン・フォスター、ランドルフ・スコットジンジャー・ロジャース、ライオネル・アトウィル、アラン・ラッド、ロバート・ミッチャムといった後のスターたちの出発点ともなった。またエドモンド・ロウ、ジョン・ボールズ、リカルド・コルテスなど中堅・ベテランに再生の機会を与えた。一方、独自のスターも育てた。ゲイル・ストームは40年にRKOでキャリアをスタートさせたが、モノグラムへ移籍。フランキー・ダロのシリーズや犯罪コメディ『ザ・クライム・スマッシャー』(43・ジェームズ・ティンリンク)などに出演する。だが彼女の歌の才能を生かした、『キャンパス・リズム』(43・アーサー・ドレイフュス)や『スイング・パレード1946』(46・フィル・カールソン)など一連のミュージカルで輝いた。50年代は歌手として活躍し、50年代中期から60年にかけてTVの「ゲイル・ストーム・ショー」のホストを務めた。英国のフィギアスケートのスターのべリタは、ノルウェーフィギュアスケーターからハリウッドスターとなったソニア・へニーに対抗し、最初は『君と踊らん』(43・レスリー・グッドウィンズ)というアイス・ミュージカルに準主演する。だが個性を発揮したのはモノグラムでリリースされたキング・ブラザーズによる低予算スリラー『狂恋の果て』(46・フランク・タットル)や同じキング・ブラザーズ製作、バリー・サリヴァン共演によるフィルム・ノワールギャングスター』(47・ゴードン・ウィルス)であった。

 スタジオヘッドのスティーブ・ブロディやプロデューサーのウォルター・ミリッシュは、低予算映画の時代が終わりを遂げると予測した。46年、モノグラムはより高価な映画を製作するために、新しいユニットである“アライド・アーテイスツ・プロダクションズ(AA)”を設立した。これは無声時代の19年にD・W・グリフィス、チャールズ・チャップリンダグラス・フェアバンクス、メリー・ピックフォードが設立した“ユナイテッド・アーテイスツ・コーポレーション(UA)”の名前を反映させたもの。ハリウッド映画の平均的製作費が約80万ドルで、モノグラムの平均製作費が約9万ドルの時代に、AA最初の作品はクリスマスをテーマにしたヴィクター・ムーア主演のコメディ『五番街の出来事』(47・ロイ・デル・ルース)は、120万ドルの製作費がかけられた。結果、推定180万ドルの興行収入で一応の成功を収めた。その後のAA作品は経済的だったが、一部はシネカラー、後にテクニカラーで撮影される作品も製作された。

 低予算映画の終焉についてのS・ブロディやW・ミリッシュの予測は、戦後急速に台頭してきたテレビによって現実のものとなる。それを受け53年、モノグラムは今後、AAの名前のみで映画を製作すると発表。モノグラムのブランド名も同年廃止された。モノグラムは48年4月に自社映画をネットワークテレビに提供し、最初の実質的な劇場配給業者となった。51年11月には“インターステート・テレビジョン・コーポレーション”と名付けてモノグラム幹部のラルフ・ブラントが社長となりテレビ部門に参入する。後年、インターステートTVは、アライド・アーテイスツTVとなる。AAのテレビライブラリーは、79年にロリマーのテレビ製作及び配給部門に売却。後にワーナー・ブラザーズTVに買収された。

 50年代半ばの一時期、ミリッシュ家がモノグラムを支配していた。ウォルターは製作総指揮、兄のハロルドは販売責任者、弟のマーヴィンは会計補佐。彼らは一流会社と証として、大予算による映画製作を企画した。W・ワイラー、ジョン・ヒューストンビリー・ワイルダーゲイリー・クーパーと契約した。56年から57年にかけて、B・ワイルダー監督、G・クーパー、オードリー・ヘップバーン主演『昼下りの情事』(57)などで、6つのアカデミー賞にノミネートされた。だがW・ワイラー監督、G・クーパー主演の『友情ある説得』(56)の興行的失敗もあり、スタジオヘッドのS・ブロディは、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(56・ドン・シーゲル)などのモノクロ低予算映画にシフトチェンジした。S・ブロディは、65年に引退した。

 AAは66年に製作を中止し、外国映画の配給業者となり、辛抱強く製作資金をストックした。ライザ・ミネリ主演の『キャバレー』(72・ボブ・フォッシー)から製作を再開し、続いてスティーヴ・マックイーン、ダスティ・ホフマン主演の『パピヨン』(73・フランクリン・J・シャフナー)を製作。両作とも批評的にも興行的にも成功を収めたが、製作費の資金調達に苦慮したため、大きな利益とはならなかった。AAはヨーロッパ配給権をコロンビア映画に売却して、ショーン・コネリーマイケル・ケイン主演の『王になろうとした男』(75・ジョン・ヒューストン)の製作費を調達した。だが興行は不振に終わり、モノグラム/アライド・アーテイスツは、遂に力尽きて79年に破産してしまった。

ブログ開始にあたり

 約10年間に渡り千浦僚くんを相棒に新宿カフェラバンデリアで開催して来たトークショウ”映画原理主義”が、2023年2月27日の第121回目で終了致しました。終了理由は開催元であるラバンデリアが再開発のために立ち退くことになったからです。正直なところ121回もやってきて、満員となったのは”高倉健追悼”の回だけで、それ以外は2,3人が平均という低空飛行でした。映画学校や街場の映画館であまり取り上げないマニアックなものばかり題材にしていたせいもあるかもしれません。ただこのあたりの拘りがなければこのイベントをやる意義がないと信じて続けてまいりました。こんな動員にもかかわらず、イベントを続けさせてくれた新宿カフェラバンデリアには、心から感謝しております。

 私自身としては、まだまだやり残した題材がたくさんあります。それでトークショウではなくブログという形で発信して行きたいと考えています。とりあえず”新映画原理主義”というタイトルで、毎月末までに一つのテーマを取り上げて論じて行きたいと思います。来月末の第一回新映画原理主義は”映画会社研究~モノグラム”です。ご期待ください。