新映画原理主義第一回「マイナー映画会社研究~モノグラム映画」

 

 モノグラム・ピクチャーズ・コーポレーション(Monogram Pictures Corporation)は、ライアート・スタジオ(後にライトーン・プロダクション)のW・レイ・ジョンストンと、ソノアート=ワールドワイド・ピクチャーズのトリム・カーによって1931年に設立された。経営全般はジョンストン、製作はカーが主に担当した。アクション、メロドラマ、コメディ、ミステリーなど様々なジャンルを網羅したB級映画の製作に特化し、早くから全米配給システムを確立した。初期のスターは、無声時代からの中堅俳優であるハーバート・ローリンソン、ウィリアム・コリア・シニアなど。若手ではレイ・ウォーカー、ウォーレス・フォード、ウィリアム・キャグニー、チャールズ・スターレットなどを起用した。この頃の人気ジャンルは西部劇で、脚本家・監督のロバート・N・ブラッドベリは息子ボブ・スティール(本名ロバート・A・ブラッドベリ)や、主演に抜擢された大作西部劇『ビッグトレイル』(30・ラオール・ウォルシュ)の大コケによりB級西部劇に出演せざる得なくなったジョン・ウェインを主演にして初期B級西部劇を多数監督した。

 35年、ジョンストンとカーは、コンソリデーテッド・フィルムインダストリーズのハーバート・J・イエーツに口説かれ、6つのポヴァティ・ロウ映画(低予算の独立系スタジオによる映画)のスタジオ連合として、リパブリック・ピクチャーズの設立に参加した。これは本陣たるリパブリックのもと、各スタジオの特色を生かした製作と配給を行った。モノグラム以下、マスコット・ピクチャーズ、リバティ・フィルムズ(*戦中にフランク・キャプラウィリアム・ワイラー、ジョージ・スティーヴンスが設立し『素晴らしき哉、人生』(46)などを製作したリバティ・プロとは別物)、マジェスティック・フィルムズ、チェスター・フィールド・モーションピクチャーズ、インヴィンシブル・ピクチャーズが参加した。最初は順調そうにみえたが、個性の強い独立スタジオの経営者たちとは次第に軋轢が生じるようになり、ジョンストンとカーもイエーツと対立して脱退する。ジョンストンはユニヴァーサル映画へ移り、一時休養していたカーは37年、モノグラムを復活させる。

 復活後も多ジャンル、低予算という初期のモノグラム・スタイルを踏襲した。ベラ・ルゴシは、40年代を通じて『ブードゥーマン』(44・ウィリアム・ボーダイン)など全9作に主役もしくは準主役で出演し、30年代に劣らぬ活躍を見せた。子役出身のフランキー・ダロは、30年代後期にモノグラムに入社し、50年まで小柄な体格を生かしたヤングスターとして会社に貢献した。黒人コメディアンのマンタン・モアランドはダロと多く共演し、49年までモノグラムのドル箱コンビとなった。メイ・ジョーンズとジャッキー・モランは、家庭的なロマンス・シリーズで人気を得て、その後ダロのシリーズにも参加した。辣腕プロデデューサーのサム・カッツマンによるストリート・ギャングもののシリーズ『イーストサイド・キッズ』は、社会派ギャングもの『デッド・エンド』(37・ウィリアム・ワイラー)に出演し人気の出た不良グループを主人公にした『デッド・エンズ・キッズ』シリーズの模倣だったがヒット。本家よりボビー・ジョーダンとレオ・ゴーシーを引き抜き契約した。その後すぐにハンツ・ホール、ガブリエル・デルとも契約する。『イーストサイド・キッズ』シリーズは、40年から45年にかけて製作された。その後、レオ・ゴーシーが主演格となり『バワリ―・ボーイズ』シリーズとなり52年まで続いた。12年間で48タイトルが製作されて、ゴーシーは、ハリウッドにおける年間ベースで最も高級を取るスターとなる。その他のヒットシリーズは、『チャーリー・チャン』『シスコ・キッド』『ジョー・パルーカ』シリーズで、これらは他のスタジオで放棄されたものをモノグラムによって復活させたものであった。一方、失敗例としてはコミック原作の『ザ・シャドウ』、ターザン映画のボーイ役ジョニー・シェフィールド主演による『ジャングル・ジム』『ボンバ』、レイモンド・ウォルバーン、ウォルター・キャレット主演のコメディ『ヘンリー』シリーズなどがある。

 多彩なジャンルの中でも一番シリーズものが製作されたのは西部劇で、ビル・コーディ、ボブ・スティール、ジョン・ウェイン、トム・キーン、ティム・マッコイ、テックス・リッター、ジャック・ランドルフが主演し、ユニヴァーサルがジョニー・マック・ブラウンとの契約を解消すると契約し52年まで活躍した。やがて単独ではなくベテランのサドル仲間を加えたトリオ形式にする。バック・ジョーンズ、ティム・マッコイ、レイモンド・ハットンは、ラフ・ライダーズ。レイ“クラッシュ”コリガン、ジョン“ダスティ”キング、マックス・ターヒューンは、レンジ・バスターズ、ケン・メイナード、フート・ギブソン、ボブ・スティールは、トレイル・ブレイザーズなど。

 モノグラム映画は、プレストン・フォスター、ランドルフ・スコットジンジャー・ロジャース、ライオネル・アトウィル、アラン・ラッド、ロバート・ミッチャムといった後のスターたちの出発点ともなった。またエドモンド・ロウ、ジョン・ボールズ、リカルド・コルテスなど中堅・ベテランに再生の機会を与えた。一方、独自のスターも育てた。ゲイル・ストームは40年にRKOでキャリアをスタートさせたが、モノグラムへ移籍。フランキー・ダロのシリーズや犯罪コメディ『ザ・クライム・スマッシャー』(43・ジェームズ・ティンリンク)などに出演する。だが彼女の歌の才能を生かした、『キャンパス・リズム』(43・アーサー・ドレイフュス)や『スイング・パレード1946』(46・フィル・カールソン)など一連のミュージカルで輝いた。50年代は歌手として活躍し、50年代中期から60年にかけてTVの「ゲイル・ストーム・ショー」のホストを務めた。英国のフィギアスケートのスターのべリタは、ノルウェーフィギュアスケーターからハリウッドスターとなったソニア・へニーに対抗し、最初は『君と踊らん』(43・レスリー・グッドウィンズ)というアイス・ミュージカルに準主演する。だが個性を発揮したのはモノグラムでリリースされたキング・ブラザーズによる低予算スリラー『狂恋の果て』(46・フランク・タットル)や同じキング・ブラザーズ製作、バリー・サリヴァン共演によるフィルム・ノワールギャングスター』(47・ゴードン・ウィルス)であった。

 スタジオヘッドのスティーブ・ブロディやプロデューサーのウォルター・ミリッシュは、低予算映画の時代が終わりを遂げると予測した。46年、モノグラムはより高価な映画を製作するために、新しいユニットである“アライド・アーテイスツ・プロダクションズ(AA)”を設立した。これは無声時代の19年にD・W・グリフィス、チャールズ・チャップリンダグラス・フェアバンクス、メリー・ピックフォードが設立した“ユナイテッド・アーテイスツ・コーポレーション(UA)”の名前を反映させたもの。ハリウッド映画の平均的製作費が約80万ドルで、モノグラムの平均製作費が約9万ドルの時代に、AA最初の作品はクリスマスをテーマにしたヴィクター・ムーア主演のコメディ『五番街の出来事』(47・ロイ・デル・ルース)は、120万ドルの製作費がかけられた。結果、推定180万ドルの興行収入で一応の成功を収めた。その後のAA作品は経済的だったが、一部はシネカラー、後にテクニカラーで撮影される作品も製作された。

 低予算映画の終焉についてのS・ブロディやW・ミリッシュの予測は、戦後急速に台頭してきたテレビによって現実のものとなる。それを受け53年、モノグラムは今後、AAの名前のみで映画を製作すると発表。モノグラムのブランド名も同年廃止された。モノグラムは48年4月に自社映画をネットワークテレビに提供し、最初の実質的な劇場配給業者となった。51年11月には“インターステート・テレビジョン・コーポレーション”と名付けてモノグラム幹部のラルフ・ブラントが社長となりテレビ部門に参入する。後年、インターステートTVは、アライド・アーテイスツTVとなる。AAのテレビライブラリーは、79年にロリマーのテレビ製作及び配給部門に売却。後にワーナー・ブラザーズTVに買収された。

 50年代半ばの一時期、ミリッシュ家がモノグラムを支配していた。ウォルターは製作総指揮、兄のハロルドは販売責任者、弟のマーヴィンは会計補佐。彼らは一流会社と証として、大予算による映画製作を企画した。W・ワイラー、ジョン・ヒューストンビリー・ワイルダーゲイリー・クーパーと契約した。56年から57年にかけて、B・ワイルダー監督、G・クーパー、オードリー・ヘップバーン主演『昼下りの情事』(57)などで、6つのアカデミー賞にノミネートされた。だがW・ワイラー監督、G・クーパー主演の『友情ある説得』(56)の興行的失敗もあり、スタジオヘッドのS・ブロディは、『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』(56・ドン・シーゲル)などのモノクロ低予算映画にシフトチェンジした。S・ブロディは、65年に引退した。

 AAは66年に製作を中止し、外国映画の配給業者となり、辛抱強く製作資金をストックした。ライザ・ミネリ主演の『キャバレー』(72・ボブ・フォッシー)から製作を再開し、続いてスティーヴ・マックイーン、ダスティ・ホフマン主演の『パピヨン』(73・フランクリン・J・シャフナー)を製作。両作とも批評的にも興行的にも成功を収めたが、製作費の資金調達に苦慮したため、大きな利益とはならなかった。AAはヨーロッパ配給権をコロンビア映画に売却して、ショーン・コネリーマイケル・ケイン主演の『王になろうとした男』(75・ジョン・ヒューストン)の製作費を調達した。だが興行は不振に終わり、モノグラム/アライド・アーテイスツは、遂に力尽きて79年に破産してしまった。